2231(仮) 第四七話
「間に合った」
向かいにいた桂花さんは、気合いが抜けたようにその場で真っ直ぐ下に尻餅をついた。僕は状況が飲み込めず、操作パネル側に回ってモニターを覗き込んだ。凍結申請の進行状況が「送信完了」から「受付」に変化していた。
「アレ、なんで?」
さっきと同じ処理が、急に次のステップへ進んだ理由が分からない。桂花さんは、困惑している僕の右手を指した。
「協力が得られないなら、細胞をサンプリングして、追加の申請をすればもしかしたらと思って」
彼女が指す僕の右手には、真境名の血液や微細な肉片がまだ残っている。僕はさっき、この上から手のひらで押し付けるようにICカードをカードリーダーに押し当てた。申請に必要な媒体に、真境名の細胞、遺伝情報も触れている。
凍結申請が通らないのは、最上位資格者が存在しているから。では、その最上位資格者が凍結申請を行えば、送信完了から先のステップに進むのではないか。彼女はどこかの段階でそれを考え、真境名に捕まるふりをしてその一瞬、油断が生まれる瞬間を、虎視眈々と狙っていたらしい。
「先に一言でも言ってくれれば良かったのに」
僕がそういうと、彼女は「敵を欺くには、まず味方からっていうじゃない」と満面の笑みを浮かべた。僕もその笑顔に釣られて笑ってしまい、「何だよ、それ」と呟いた。
「おい、何がどうなった?」
すっかり大人しくなった真境名に手錠をかけた米利刑事が、彼をしょっぴきながら近付いてきた。織林刑事は、真境名の使っていた銃を慎重に回収し、その後から付いてくる。米利刑事は腕時計を確かめた。
僕は慌てて、モニターの下にある時計へ目をやった。いつの間にかリセットの予定時刻を過ぎている。桂花さんと二人で雑談をしている間に、タイムリミットの瞬間を見落としてしまったようだ。
モニターの片隅で自動的にプレイヤーが立ち上がり、八時ちょうどを過ぎたと伝える紫音さんの天気予報が始まった。いま降っている雨はそのうち上がり、今日の日中は好天が広がるらしい。気温もぐんぐん上昇するとか。
今日も、暑い一日が始まる。暗雲がまだ頭上に広がる中、眼下の海や街を眺めながら、ハチ公を元の位置へ戻すために、上向き三角のボタンを長押しし始めた。
その後、僕と桂花さんとは雨に濡れたままの身体で長時間振り回されたため、翌日から季節外れの風邪を引いてしまった。彼女はその日のうちにケロッと治ったらしいが、僕は二、三日ほど授業を休むことになってしまった。
街を騒がせた事件は一応の解決を見せ、警察は全力で真境名の「予備」とやらの確保に当たっているらしい。彼の潜伏先も、ザ・シティや空湖さんの協力を得ながら、しらみ潰しに探し、新たに見つかった危ないものも、改めて警察とザ・シティが連携を取って管理していくことになったようだ。
学校も街も、事件が起こる前の姿を取り戻しつつある。チャルカ教とザ・シティ、町の医療機関、行政の連携により、事件による不都合な記憶の洗浄、偽の記憶を刷り込む作業も順調に進んでいる。リモートが終わった教室へ復帰した時には、機械と人の対立なんて微塵もなかったような、平和な空間になっていた。
テッちゃんや稲荷さんを訝しむこともなく、僕と桂花さんが、アレが異常だったんだと思いさえすれば、何事もなかったことに出来る。入駒や駿が最初からいなかったことになるのは寂しいが、それさえ飲み込めば平穏な毎日が手に入る。僕らが忘れさえしなければそれで良いと、思い込むことにした。
マトモにリモート授業をこなす時間が確保できず、体調不良で事前のテスト勉強も間に合わなかった僕は、ボロボロの期末テストを迎えていた。史上最悪の手応えに、両親に何と言い訳するか頭を悩ませていると、帰宅途中で待ち構えていた米利刑事に遭遇した。
彼はいつものように右手を挙げ、「よう」と挨拶した。僕は「どうも」と挨拶を返す。
「急に、何のようですか?」
「試験終わりに、ドライブはいかがかと思ってね」
彼はパトカーの後部座席を開け、乗っていけと目で合図する。
「そんな嫌そうな顔するなよ。大した用事じゃないさ」
パトカーに乗るのを躊躇っていた僕に、彼は「良いから。ほら」と僕の背中に手を当て、強引に車内へ押し込んだ。
後部座席で、相変わらず強引だなと思いながら座り直していると、運転席の織林刑事と目が合った。彼女は「どうも」と会釈する。真境名に撃たれた左腕は急拵えなのか、彼女の身体には見合わない、一回り大きなサイズになっていた。
当然のように助手席に乗り込んだ米利刑事の合図で、パトカーは学校の前から夢洲署へ向かって走り出した。車窓から見える町の様子に、事件の痕跡は微塵も感じられない。唯一の影響は、西暦の先頭が三になっているぐらいだろうか。
「元気にしてたか?」
事件の後も、警察やザ・シティ、チャルカの人たちとはそれなりに連絡を取っていたはずだが、米利刑事は初耳かのように、ミラーで僕の顔を見ながら言った。
「身体はすっかり元気ですけど」
「試験はズタボロだったって顔か」
米利刑事は、僕の顔を見てズバッと核心を着く。隣でハンドルを握っていた織林刑事は、「無神経が過ぎますよ」と彼に抗議した。米利刑事は、「なんだよ、お堅い奴だな」と突っ込んだ。
「お前だって、試験の一つや二つ、ズタボロの時ぐらいあっただろ?」
「そんなもん、無いですよ。先輩と違って、私は優秀なんで」
米利刑事は、「え〜、お前が?」とケラケラ笑いながら言った。少なくとも、米利刑事には分からなかったウラジミールと、エストラゴンのことは知っていた。
後部座席で、前に座る二人の痴話喧嘩を聞いているうちに、パトカーは夢洲署に到着した。真境名の身柄は、ザ・シティに回収されていて、ここにはないらしい。先に降りた米利刑事の案内で、最初に通された小部屋に入った。真ん中にある小さな机の上に、入駒に渡したものと同じ傘が、ビニール袋に入れて置いてあった。
米利刑事は僕を奥の椅子へ座らせ、正面の席に腰を下ろした。後から入ってきた織林刑事は、彼の隣に座る。
「もう、原本を保管する理由もないしな。ほら」
新品のように綺麗なそれを、米利刑事は差し出した。僕は両手でそれを受け取る。警察が複製した物とは違う、正真正銘の僕の傘だ。まさか、戻ってくるとは思わなかった。僕が傘を受け取ったのを確かめると、米利刑事は颯爽と立ち上がった。
「え、コレだけですか?」
僕がそう言うと、米利刑事はこちらを振り返りもせず、「ああ、そうだ」と答え、織林刑事に「あとは頼む」と言って、部屋を出て行った。傘を受け取るだけなら、わざわざ連れて来なくても良いのに。
「面倒臭いんだよね、あの人」
織林刑事は、米利刑事の出て行った方を見て呟いた。彼女は「さ、行こうか」と立ち上がった。彼女に案内され、再びパトカーに乗り込んだ。彼女の運転で、家の近くまで送ってもらう。
「じゃ、また連絡するね」
僕がパトカーを降りると、彼女は運転席に収まったまま窓を開け、僕に手を振った。僕が彼女に手を振りかえすと、織林刑事はパトカーを静かに発進させた。
今季初の台風上陸の予報が伝えられ始めた週末、桂花さんから呼び出しが入った。父さんや母さんは、「クラスメートとデート?」と囃し立てたが、呼び出された江辺野家へ行くと、玄関横のガレージで空湖さんが待っていた。桂花さんは、先に車に乗り込んでいるらしく、助手席の窓から顔を出し、僕に挨拶した。
「じゃあ、行こうか」
空湖さんは行き先を告げず、僕に後部座席へ乗り込むよう促した。僕は促されるまま、桂花さんの後ろの席に乗り込み、空湖さんは運転席に乗り込んだ。シートベルトを締め、何も言わずに車を発進させた。