奈落の擬死者たち(仮) 第十九話
ルリ子は、オレの目の前で忙しそうにしながら、時折こちらへ視線を向ける。自分の仕事で手一杯だろうに、ご苦労なことだ。そんなオレは、ルリ子から視線を向けられるたびに、腹が立った。そんなに何度も気にかけられても、痛みも腫れも引くことはない。
彼女は手元の資料と台の上に横たわる、首から上がなくなった守住の遺体を確かめながら、横目でオレに「どう? ちょっとはマシな顔になった?」と尋ねた。オレは彼女にもらった氷嚢を目元に当てながら、「さあね」とボヤいた。
彼女はオレの顔を至近距離、真正面から覗き込んだ。彼女の白衣に染み付いた、消しきれないタバコの香りが微かに鼻を撫でる。
「全然ダメね。その顔じゃ、今夜も食事には誘えないわ」
彼女はオレの顔に添えた両手をそっと離すと、元の仕事に復帰する。
「そんなにか」
オレがそういうと、彼女は口を開かず、側にあった小さなスタンドミラーをオレに差し出した。彼女が自分の身支度を確認するためのものらしいそれで、オレは自分の顔を確かめる。まだぼんやりとしている視界でも、鏡に映る顔が化け物じみているのはよく分かった。オレは彼女に鏡を突き返すが、彼女は机に置いておけと顎で示した。オレは彼女に言われるがまま、スタンドミラーを元の場所へ戻す。
今度ばかりはと流石に死を覚悟した激闘の後なら、酷い有様でも仕方あるまい。両腕を強化ユニットに付け替えていた守住との戦いは、やはり相性が悪かった。
「年の瀬に、露出の多い年増やら、ちんちくりんの小娘やらと神戸で密会なんてするから、バチが当たったんじゃない?」
なぜかルリ子は、ちょっぴり険のある声で言う。それとこれとは、全く関係ない。
「お嬢ちゃんとの件は、牧には伏せられるか?」
「さぁ? 上が問題ないと判断すればフリーパスじゃないかしら」
彼女はこちらを一顧だにせず、ルリ子は守住の遺体を細かく見ては、手元の書類に何かを書き込んだ。
「あなたも簡単には死ねないんだから、情報が欲しいなら殴り込みにでも行けば良いじゃない」
ルリ子はなおも、オレの方を見ずに言う。オレをそうしたのも、オレがそうしないのも分かっているはずの彼女は、一体何に怒っていると言うのだろう。もう守住の遺体から収集するデータもなさそうなのに、頑なにこちらを見ない。
「オレが打って出たら、味方になってくれるのか?」
「まさか。研究者として、その選択はあり得ない」
費用も倫理も、歯止めが無用の理想郷。科学や技術発展のためなら全てが是となる。アクセス不可の領域も、ルールも全てを無視できるのは「こちら側」に席を置くから。彼女には、敵対して得することは何もない。
「多少はオレに好意があると思ったが」
「年の瀬が差し迫って、人肌恋しくなっただけ」
彼女の回答に、つい鼻で笑ってしまう。ルリ子はますます不機嫌そうな表情を浮かべる。禁忌の術で手に入れた折角の美貌も、微塵も役に立たないとなれば笑うほかない。だが、笑みを浮かべた途端、鋭利な痛みが体を駆け抜けた。今まで使っていなかった筋肉を動かしたからか、急に痛みが連鎖する。悶え苦しむオレを見て、今度は向こうが笑っている。
「仲間の死体を目前にして、よく笑えるな」
「それは、あなたもでしょう?」
オレが腐すと、ルリ子は同じ勢いで返してきた。
「デートを楽しんだ同じ日に、元同僚となんて。避けられなかったの?」
「美花の仇と言われたら、無理だ」
ルリ子は、「ああ、蜂女の」と頷いた。
神戸から地元駅まで戻ってくると、肩を怒らせた守住と改札前で遭遇した。久しぶりという雰囲気は全くなく、怒りと復讐心に燃えた目をしていた。その場で暴れ出して、一般人に危害を加える気配は全くない。感情を昂らせながら理性的に振る舞える様に、彼らしさを痛感したものの、話を聞いて状況を理解した。
神戸での密会は、デートという雰囲気では全くなかったが、少しは華やかな心持ちになっていたところへ、冷や水を浴びせられた気分だった。
オレは彼の想いを受け止めない訳には行かなかったし、アイツらのボス、あの小僧にも個人の復讐を抑止するような野暮な決め事はないのだろう。
守住には駅前で声をかけられたが、人目につきにくい最寄りの河川敷まで彼を案内した。彼と本気でぶつかり合うには十分な広さとは言えなかったが、周囲の橋脚や橋には物損を出さずに済んだ。
「それで、どうなんだ?」
守住の遺体を前に腕を組むルリ子に声をかけると、彼女は肩をすくめた。
「彼の改造は単純だし、新しいデータも目ぼしいものは特にないし」
随分入念にチェックしていたようだが、彼女の目には守住の遺体は価値なしのようだ。アイツらが不審物を仕掛けた痕跡も見当たらないなら、彼の遺体はそのまま荼毘に付されるのだろう。
命のやり取りを終えた後、河川敷に大男の遺体を放置する訳にもいかず、ルリ子を頼ったのだが、ひとまず遺体の処遇は目処が立ちそうだ。
「諸々の手続きも、何とかなるんだな?」
ルリ子は再び肩をすくめる。まぁ、確かに彼女の管轄外だろう。
顔の腫れは相変わらずだろうが、守住の処遇が明らかになれば、ココにいる理由はない。オレは氷嚢をルリ子に手渡すと、「街」を出た。寒空の冷気が、そこここにある腫れを優しく冷やしてくれる。
それなりに時間を掛けてケアしたつもりだが、まだまだ酷い顔のままらしく、周囲から注がれる視線が痛々しい。オレはできるだけ人通りが少ない道を通って自宅兼事務所へ戻った。この顔、それに血がべっとり残ったこの見た目では、他所で寝泊まりは無理だろう。
腹が減っていても、冷蔵庫に目ぼしいものは何も入っていない。冷凍庫へいつ放り込んだか覚えていない食パンを取り出し、二枚ほどトースターに放り込んだ。パンが焼き上がるのを待つ間に、汚れた衣類から着替え、血塗れのそれは処分することにした。
きっと今頃、守住の遺体も処分されていることだろう。かつて共に働いたアイツが、まさか連中と繋がっていたとは。オレは少し焦げた食パンを頬張り、苦い想いも一緒に飲み込んだ。
一日を終える食事としてはあまりにもお粗末で、ただ食えるものを腹へ詰め込んだだけに等しい。オレは一度風呂に入ってから、久しぶりに「狸」へ繰り出すことにした。刑部さんや牧への蟠りはまだあるが、他に行く当てもない。
守住との戦いで負った汚れも落とし、自分で姿見を見ながら、少しは見栄えが良くなるよう手当を施す。流石の刑部さんでも入店を断られる可能性もなくはないが、営業妨害、嫌がらせになるようなら、それはそれで構わない。
オレはしっかり施錠して、一つ上の階へ上がる。久々の「狸」は見覚えのある顔ばかりで埋められていた。オレは、先に来ていた牧の隣、唯一空いていたカウンター席へ案内された。
彼はオレを見るなり、「よう、久しぶりだな」と言った。
「風祭を調べているようだな」
オレが椅子へ座る前に、彼は早速カードを切って来た。お嬢ちゃんは上手くやったはずだが、流石に牧の目は誤魔化せない。オレはバイトくんにビールを頼み、「悪いか?」と牧に言った。彼は首を横に振り、「いや、何の問題もない」と答える。
「アイツにどんな裏があるか、それをどう調べられようが、ウチには何の問題もない」
「奴がお嬢ちゃんとトラブルを起こしていても、か?」
牧は何も言わず、自分のグラスを口に運ぶ。
「必要なら介入するさ。必要ならな」
牧はおどけて見せたが、オレは全く笑えなかった。こいつは何をどこまで知っていて、何を掴んでいないのか、全容を捉えきれない。
「また、一人倒されたそうで」
バイトくんに頼んだビールを、刑部さんが運んで来てくれた。彼は丁寧な挨拶の後、守住の件を切り出す。オレは曖昧に返事をすると、ビールに口をつけた。彼が出してくれたミックスナッツを一掴み、口の中へ放り込んだ。