3月10日(金)
一輝さんは入り口横の冷蔵庫からビールを選び、店員さんに渡すと僕らのテーブルまで戻ってきた。斜め向かいに座る沙綾さんと二人だけなのは、まだなんとなく背筋が伸びる気がする。
店員さんがグラスに注いだビールと、さっきの瓶を持ってくる。一輝さんはちょっと黒いビールをグッと流し込んだ。沙綾さんは瓶のラベルを眺め、一輝さんが手を離したグラスに口をつけた。
「結構甘いのね。これなら哲朗くんも飲めるんじゃない?」
彼女は口元を拭いながら、ビールの入ったグラスを差し出した。手振りで辞退を示すと、「ふーん。そういうの、気にする感じ?」と笑みを浮かべながら、一輝さんの前にグラスを戻した。
「あんまりいじめてやるなよ」
「大事な妹の彼氏だし? ね、もうヤった?」
一輝さんの表情が一瞬固まる。全力で頭を振って否定する。「冗談、冗談」と沙綾さんは笑みを浮かべるものの、鋭い視線は僕の目から離れない。曖昧な笑顔を作り、一呼吸置いてから視線をグラスに移し、一口飲んだ。ホワイトビールだからそんなに苦くないと書いてあったのに、自分には十分苦い。
「次は、どうしよっかな〜」
沙綾さんは自分のビールを飲み干して、冷蔵庫の方へ歩いていく。
一輝さんは声を少し落として、「なんか、ごめんな」と囁いた。
「こっちのチョンボもカバーしてもらったお礼だったのに」
「いえいえ。こちらこそ、いつも奢ってもらって」
「いいって、いいって。どんどん食べて」
「じゃあ、いただきます」と改めて箸を持ち、目の前の肴に手を付ける。牛肉のしぐれ煮が豊かな風味と甘味を口いっぱいに拡げてくれるのに、添えられている葉わさびがそれなりに辛い。鼻にくる辛さに耐えてビールを飲むものの、やっぱり苦い。大きい方のグラスを選んだのは、失敗だったかもしれない。
「今度は緑?」
一輝さんの視線は、僕の後ろを見ていた。沙綾さんが新しいビールを持ってテーブルへ戻ってくる。手元のグラスには緑のビールが注がれている。
「そ、抹茶」
「抹茶といい、桜といい」
「いいじゃん、春らしくって」
沙綾さんの後ろについてきた店員さんは、ポテトフライとサラダを置くと、空いたグラスをもってカウンターの向こうへ帰っていった。
「みぃちゃんもいたら良かったのに」
沙綾さんは緑のビールを一輝さんに勧めながら言う。彼はそれを一口飲んで、「あいつの誕生日はまだ先だよ」と答えた。
「誤差みたいなもんよ」
「いやいや、お店に迷惑かかるから」
「じゃ、手土産持って実家で飲ませるか。そのときは、哲朗くんも一緒に行こ」
一輝さんの表情が微妙に濁った気がするけど、それ以上に僕へ向けられた沙綾さんの圧が強い。視線と近さにうろたえている間に、「ね?」と念押しが加えられる。
「大丈夫、大丈夫。杏より梅が安いって」
沙綾さんは一輝さんの背中を軽く叩いて、ご機嫌に笑う。一輝さんの顔に「うわぁ」と書いてあるような気がしたけど、それは酔っ払いに関してなのか、ワードセンスに関してなのか、僕にはよく分からなかった。
「お嬢さんとおつきあいさせてもらってます、ってちゃんと」
「いや、彼氏とかじゃないですよ」
沙綾さんの言葉が途切れる前に、言ってやる。そう、彼氏とかじゃない。彼女の手が柔らかいこととか、その小ささとかは先週知ったけど、彼氏とかじゃない。
二人でひらパーに行ったぐらいはなんともない。そう自分に言い聞かせながらも、細心の注意を払いながら目の前の二人と向き合った。酔っ払ってなくても厄介な人と近々一緒に住むのは大変だろうな、と思いを馳せながら、口を潤すためにビールを飲んだ。