12月31日(日) 午前9時

 一人暮らし用の小さな食卓に、卓上の三面鏡を置いて広げてしまうと、それ以外のものを置くスペースはほとんどない。私は申し訳ない気持ち半分、早く済ませなきゃという焦り半分で、慣れない化粧とあまり見たくない自分の顔に向き合っている。
 部屋の主は、向こうの部屋から戻ってきた。洗濯物を干し終わったらしい。
「部屋干しだと、今日は乾かないかもね」
 哲朗さんは元気そうに笑って言った。私はシャワーを浴びてもなお、頭が寝ているような気がするのに、彼は何事もなかったかのように手際良く家事を済ませていく。そのテキパキとした動きに、私はより一層焦らされる。
「向こうは一回仮眠してからって、言ってたから早くてもお昼過ぎじゃない?」
 彼は自分のスマホを操作しながら、「8時半のバスには乗れたんだって」と一兄たちの状況を教えてくれた。8時半に駅前を出たのなら、帰り着くのはまだまだ先。無駄に焦る必要もない、かも。
 私はちょっとだけほっとして、落ち着いて目元のメイクに取り掛かる。
「モノレールで行っても、バスで行っても、昼前には着いちゃうな。どうしよっか?」
 私が目も手も離せない状況になってから、彼は意見を求めてきた。私は変にズレないよう呼吸を整えてから、「着いてから考えればいいんじゃない?」と応えた。一旦左目だけ終わらせて、「向こうも何時に着くか分からないんだし」と付け加える。
「それもそっか。そうだよね」
 彼は納得してくれたらしい。ただ、手持ち無沙汰そうに、ずっと目の前に立っているのは変わらない。私は「ああ、ごめんなさい」と手元を少し片付けて、三面鏡を手前に引いた。彼は「あ、ごめんね。気にしないで」と結局座らない。
「時刻表とかお店とか、調べてくるよ」
 彼は出てきたばかりの部屋へ戻った。そっちの部屋からキーボードを叩く音が聞こえてくる。私は微妙なモヤモヤを抱きながら、半分しか終わっていない目元のメイクを再開する。
 この後、また沙綾さんと会うのでもなければ、こんなにメイクすることもないのに。やったとしても、どうせ向こうでダメ出しついでのオモチャにされるんだけど。
 ここで寝起きして、こうやって顔を作るのもだんだん慣れてきた。ひょっとすると、自宅で化粧する方が下手かもしれない。徹夜も外泊も朝帰りも、いつの間にか普通になってきた。どこまでやれば正解なのかも分からないけど、目元も一通り終わったし、こんなところで良いんじゃない?
 三面鏡を閉じて、哲朗さんのいる部屋へ持っていく。こっちの部屋も、随分「私」が侵食している。申し訳ないと思いながら、いつもの場所へ三面鏡を片付けた。
「お待たせ」
 エキスポシティまでの乗り換えを確認していた哲朗さんに話しかける。彼はこちらを振り返って、「うん、可愛い」とさりげなく言った。彼は私の反応を気にすることなく、「どっちで行こうか」と、モニターへ視線を戻す。
 どっちだろうと、今の私にはどうでもいい。私も自然体を装って、「どれとどれ?」と彼の後ろからモニターを覗き込むように身体を密着させる。上坂さんならどうするか、普段は考えたくもない相手だけど、今回ばかりは力を借りよう。大晦日はまだまだ、始まったばかり……。

(完)

初稿: 改稿:
仮面ライター 長谷川 雄治
2013年から仮面ライターとしてWeb制作に従事。
アマチュアの物書きとして、執筆活動のほか、言語や人間社会、記号論を理系、文系の両方の立場から考えるのも最近の趣味。