海童
海か、プールか。どっちでもいい、と思った。しかし、それは大きなまちがいだった。プールを選んでいれば今頃、草臥れたスーツ姿の穂高に夢洲の駅まで見送られることもなかっただろう。
先日まで信州に里帰りしていたという彼は、例のマスコットが消えかかっているハンドタオルで、額に浮いた汗を拭った。
「郵送でもよかったのに、誕生日にすみません」
「いやいや、ついでだから」
彼は、NAMMUとロゴが入った角形封筒を抱えながら、「ああ」と納得した。一般客が増えてくる手前で、「じゃあ、私はここで」と足を止め、深々と頭を下げた。私は彼に見送られながら、親子連れやカップルたちの間に混ざった。
夏休み真っ盛りの雑踏の中でも、視界補正レンズは上手く機能している。自動車や自転車の運転は無理でも、人混みの中を歩くには十分だろう。気になることがあるとすれば、道案内やポスターの文字情報を拾いすぎるぐらいか。無視したくても、「8.17」のイベント告知が鮮明に飛び込んでくる。
「終わったイベントのポスターは、さっさと剥がして欲しいよね」
自分の声にしてはやや高めの音が、自分の口より低いところから聞こえてきた。無意識に大きめの独り言を口にしたのではないらしく、周りの誰も私のことを気にしていない。往来の邪魔にならないよう足を止め、周りをよく見る。AIの自動補正が追いつくよう、ゆっくり右から左へ顔を動かした。
「こっちだよ、お父さん。こっち、こっち」
声の主はまだ見つからない。「すみません」と繰り返しながら、人混みを掻き分けて声のする方へ、ずんずん進む。いつの間にか建物の外、海沿いの遊歩道まで来ていた。さっきより人は減ったものの、声の持ち主はまだ見えない。
「だから、こっちだって」
親子連れやカップルが点々と座っているものの、私に声をかけてくるような人は見当たらない。声の方向からしても、どうも海の方から聞こえてくるらしい。落下防止の柵もない水際へ、足元に気をつけながら近づいてみると、息子の湊が波間に漂いながら、「やぁ」と手を上げた。
私が「何をやっているんだ?」と声をかけようとすると、彼は「まあまあ、気にしないで」と相変わらず海中から身体を出そうとしない。私も仕方なく、岸の縁に腰を下ろした。
「お父さん、元気?」
「ああ、まあな」
私は「そっちは?」と言いかけて、言葉を飲んだ。湊はニコニコ笑いながら、私を見ている。私も彼をじっと視る。あの日と同じ服装で、顔付きや身体は記憶にある姿より成長しているように思えた。私は湊へ、手を差し出していた。
「だめだよ、お父さん。気を付けないと」
湊は私の手をじっと見て笑った。
「お盆明けの水辺だよ?」
「ああ、分かってる。ほら、早く」
岸から身を乗り出し、更に腕を伸ばした。一度は離した手も、今度は絶対離さない。
私の手を握り返した湊の手は、抵抗の余地もない力強さだった。
※「読売キャンパス・ランサーズ」(愛称・ヨミティ)で連載されていた「有栖川有栖さんとつくる不思議の物語」、2006年7月分の佳作選出『海童子(うみわらし)』をタイトルも含めて大幅に加筆修正。
有栖川有栖が設定する冒頭の書き出しに合わせて、1200字程度の作品を書いて投稿するというコーナー。読売新聞の夕刊本紙に掲載される入選には入らなかったものの、三作ほど佳作入選。その中の一本を、思い出せる大筋はそのままに、ほぼ新作として書いてみた。