2231(仮) 第一話
雲一つない青空に、白球が綺麗な弧を描いている。
「そっち、行ったぞ」
センターを守っていた駿が、こちらに駆け寄りながら声をかけて来た。僕もボールを見上げながら、オロオロと後ろに下がる。頭上に掲げたグローブの中へボールは収まらず、僕の足元に落ちたボールを拾った駿は、助走を付けるとホームのキャッチャー古谷まで、ノーバンでバックホームした。
相手チームの追加点にはならず、試合途中のままチャイムが鳴って、授業は終わった。挨拶も程々に、道具を片付けながら更衣室へ引き上げる途中、駿に呼び止められた。彼は、右肩を押さえながら、古谷も手招きする。
「コイツと保健室寄ってくから、ヤッセンによろしく言っといて」
彼は当然のごとく、「じゃ、よろしく」と古谷を連れて保健室の方へ去っていった。
駿と古谷を欠いたまま、何事もなく数学の授業が始まった。これが終われば、今日の授業は終わり。日付的には当てられることもない。教室を見渡せる窓際の席から、ボーッと全体を眺めていると、駿と古谷が保健室から戻ってきた。ヤッセンは、「早く座れ」と一言言うだけで、板書に戻る。
「で、どこだっけ?」
右腕を欠いた駿は、器用に左手一本で教科書とノートを取り出した。僕は無言で教科書を指し示し、小声で「左手だけでどうするんだよ」と聞いた。駿は、「後でノート借りるな」とヤッセンに聞こえないように答えた。
ノートにしっかり板書を写したところでさっぱり飲み込めないのに、駿のお陰で真面目にメモを取らなければならなくなった。ヤッセンに消される前に、これまでの板書をなんとか写し切った。
チャイムが鳴り、ヤッセンと入れ替わりに担任の加藤が入ってくる。特に連絡事項もないホームルームの間に、駿は僕のノートを返してきた。僕の目はどうしても、駿が失った右腕に行ってしまう。古谷の方は、身体に似合わない華奢な左腕が付いている。
「お前はもう帰るんだろ?」
「そっちは?」
「部活に決まってんだろ。あっという間に夏大だぜ?」
駿は付け根から先がない右肩をぶんぶん回し、古谷に「さ、行くぞ」と声を掛けて教室を出て行った。
「レギュラーかかってるもんなぁ……」
後ろから声を掛けてきたテッちゃんと、ロッカーの方へ足を運ぶ。渡り廊下の出口で、「じゃ、ココで」と彼は言うと、右手の家庭科教室へ入っていった。帰宅部の僕は、一人で下足に履き替え、通用門の方から駐輪場へ向かう。左手のグラウンドで、駿も古谷も野球部の練習に参加していた。駿は、片腕のままだった。
白球を追いかけて遠ざかる駿を見ていたら、後ろの方から柔らかい風が吹いてきた。今度はそちらへ目を向ける。しなやかで美しい四肢が、ゆったりと宙を舞う。白いシャツと日に焼けた肌、青い空のコントラストは、いつまでも見ていたかった。
見事な背面跳びを決めた江辺野さんは、素早くマットから身体を起こし、僕の視線など気にすることなく、シャツの袖で汗を拭う。勝ち気な視線とぶつかっても、彼女は何も言わず、高跳びの練習へ戻っていく。
彼女以外は、ほぼ全員が陸上競技用にチューニングされた強化型の脚を付けている。加工も課金もなし、純然たる炭素製の自前の足で、誰よりも遅い助走で、誰よりも低いバーを跳んでいる。フォームにまだバラつきがあるのに、ナチュラルな跳躍が気になって仕方がない。
引っ掛けて落としてしまったバーを戻し、順番待ちの列へ戻る途中で、こちらに近づいて来た。フェンス側の荷物から、水筒を取り出した。グラウンドの方がちょっと高い位置にあるせいで、ここからはお尻を見上げる形になる。
江辺野さんは、タオルを取り出して汗を拭った。肩にかけ、もう一度水を飲む。
「覗きの趣味でもあった?」
彼女の問いかけに、僕は「別に」と首を振った。彼女は「ふ〜ん」と言いながら、タオルと水筒を鞄に押し込んだ。首元の隙間から、中がチラッと見えた気がする。江辺野さんはニヤリと微笑んで、小さな声で「えっち」と呟いた。僕は慌てて背中を向け、いつもより早歩きで、自転車置き場を目指した。
「まー君、いつもゴメンね」
洗濯物も片付けて、真珠の世話を母さんにバトンタッチしたら、今度はばあちゃんの付き添い。離れの玄関から入り直して、表へ回した車まで誘導する。ばあちゃんが後部座席に乗って、シートベルトを締めたことまで確認したら、運転席へ移動する。
死亡事故もほとんどなくなった自動運転、万が一のハンドル操作ぐらいしか役割はないけど、安全運転でいつもの総合病院へ向かう。ハチ公タワーが見えて来る頃、フロントガラスにポツポツと雨粒が落ちてきた。今朝の予報通り、車には傘も乗せてある。
病院に着いたら、いつも通りにリハビリ科の五十嵐先生へばあちゃんを引き渡し、万が一の呼び出しに備えて待合室の薄い椅子に腰を下ろした。いつものように、爺さん婆さんで埋まっている。
いつも通り、何事もなければここから90分。尻は痛くなるけど、今日も持ち込んだA5ノートを開き、ペンを手に取った。空想の世界で、現実逃避だ。
今日見た光景を脳裏に思い描きながら、時折、待合室を行き交う人の様子を観察する。たまには備え付けのテレビも見ながら、ノートに書きたい世界を足していく。一瞬見えた小ぶりな膨らみや谷間は、ーー忘れよう。
「あれ、まー君?」
急な声かけに、身体が大きく跳ね上がった。鼓動も大きく早くなる。声がした方へ振り返ると、入駒がいた。十年ぶりぐらいにじっくり見る顔は、紫外線焼け以外のアザもあるように見える。
「隣、いい?」
入駒は、僕の返事も待たずに開いていた隣の席へ腰を下ろした。彼女は、露出がやや多い格好で、教室で見る制服姿より大人びて見えた。
「どうしたの?」
「ばあちゃんの付き添いで。入駒は?」
彼女は「入駒だなんて、そんな」と言いながら、腕をさする。
「補修に」
補修? 打ち身の受診じゃないのか。
「こうやって話すのも、久しぶりだね」
僕は曖昧に、聞こえるか聞こえないぐらいかぐらいの声で「そうだね」と返した。
「同じクラスになったら、もっと喋れると思ったのに」
こうやって、入駒と並んで話すのは未だに緊張してしまう。小学校へ上がる前、幼稚園の卒園式後に告白されて以来、この春から再会しただけなのに。子どもだったからなのか、少しだけ大人になったからなのか。
周りの目が気になる思春期だからか。彼女の場合はそもそもーー
「じゃあ、もっと登校して来いよ」
「そうだよね。まー君の言う通り」
不登校とは言わないが、進級も危ぶまれるレベルで休んでいる。なぜ休んでいるのか、その理由も何となく察しはつく。入駒はやや伏し目がちになり、会計へ呼び出された。荷物を持って、呼び出し口へ向かう。会計を済ませるまで何となく見ていると、傘は持っていないように思える。
入駒はこちらへ振り返ると、手を振ってそのまま出口へ向かおうとする。僕は自分の荷物を椅子に置き、顔馴染みの婆さんに番を頼むと、傘を握って彼女を追いかけた。
「祭ちゃんっ」
一足先にポーチへ出た入駒は、呼びかけに脚を止めて嬉しそうに振り返った。僕は、自分の傘を彼女に突き出す。
「いいの?」
僕は何も言わず、傘をさらに突き出した。
「本当に?」
一瞬、ばあちゃんが濡れるなと思ったけど、家に帰り着いた時のことは、後で考えればいい。何度も繰り返し見たあのアニメ映画みたいに、入駒に傘を押し付ける。
「じゃあ、遠慮なく」
「今度、学校で返してよ」
入駒は笑顔で頷くと、傘を差して駅のほうへ歩いて行った。それが、彼女と交わす最期の言葉になるとは、この時、思いも寄らなかった。