遊川の日誌 vol.1
もう何度目か分からない手術を終えた彼は、ひとしきり暴れた後、ようやく眠りに就いた。元の身体なんて、もう一パーセントも残っていないというのに、その寝顔は昔から見ていた面影を残している。
この顔を初めて見たのは、もう二十年以上前。私も何も知らない少女だった頃、女の子みたいに整った顔立ちの、可愛らしい年下の男の子だった。子ども園でも小中学校でも、学年が違えばそれ以上の接点はなく、落ちこぼれだった私は内部進学もできずに、外部の公立高校を受験した。
「外」に出てしまえば、もう二度と出会うこともない。そう思って二年も過ごしていると、三年生になる頃、新入生に彼の姿を見かけた時は心底驚いた。子どもらしい丸顔しか記憶になかったが、すっかり男らしい顔つきになったその顔に、私はビビッと胸を貫かれた。
この人が、私の運命の人かもしれない。
幼い頃に面識のある人と近い地域の高校でたまたま再会するなんて、きっと大した確率ではない。運命と決め付けるには頼りない確率だが、根暗の理系女子を爆進していた私には、数少ない運命の出会いだった。
出来ることなら、彼の初めての人になりたい。人付き合いが苦手で、友達と呼べるような人も少なく、異性とのやりとりなんてもってのほか。ましてや、人気のある下級の男の子に声をかけるなんて、モブの私に出来るはずもない。
その後も結局、高校ではロマンスなんて一ミリも起こることなく、卒業してしまった。在学時にチャンスが何度かあったにも関わらず、言葉も大して交わせなかった。でも、彼がお父さんの後を継いで、ネフィリム計画に関わりたいと言うのはどこかで聞いた。私は全てを勉強にかけ、「街」との接点が多い命輝大学に現役で合格できた。
彼とは志望学部が異なったらしく、大学や大学院で一緒になることはなかったが、私が研究所へ就職したときは、後から彼も配属されてきた。一度は「街」を離れた二人が、同じ仕事を志望して、同じ職場で再会できた。
私の方から擦り寄って単なる偶然とは程遠いが、もう運命と信じてもいい。彼のその後の恋愛遍歴は全く知らなかったが、私は必死に努力した。根暗でブスな見た目も性格も徹底的に治し、彼が惹かれそうなクールビューティーな先輩研究員の姿を作り上げた。
幼い頃からトレードマークだった赤いメガネは変えず、それが映えるように全てを整えた。これなら、彼は振り向いてくれるはず。一人で必死に願っていたら、再会した研修の場で、「高校以来ですね、遊川先輩」と彼の方から声をかけてくれた。
私は一人で、勝手に盛り上がっていた。その場は職場の先輩として、研修の先生役を何事もなかったように務め上げたが、心のドキドキを抑えるのに必死だった。何を言い、何を教えたのか、その日の記憶が全くない。
後にベッドで彼に直接尋ねたところ、「別に、普通だったよ」と彼はこともなげに言った。変なところはなかったか尋ねると、「ちょっと早口だったかな」と付け加えた。
必死にクールビューティーを気取っておきながら、私は二つも下の男の子相手に、舞い上がっていた。経験のなさはすぐにバレ、引く手数多の優秀な彼は、仕事もきっちりこなしながら、多くの女性研究者と逢瀬を重ねた。私もその中の一人。最も、私と彼とでは種族の垣根があって、どれだけ頑張っても自然繁殖による子供は望めない。そこも、彼にとっては都合が良かったのかもしれない。
他の人ならいざ知らず、私は別に、それで良かった。彼に利用されるだけのメリットがあるなら、使い捨てられるまで「都合のいい女」で構わない。
そう心を決めていたのに、彼はいつの間にか「被験体」としてベッドに横たわっていた。ハチ公タワーのメンテナンス係として再就職していたお父さんが運転する車に乗り、ハチ公タワー近くの交差点で、別の車と衝突事故を起こした。一方は酒を飲んでおり、猛スピードでぶつかった二台の車は、いずれも原型を留めない凄まじい事故だった。
彼と同乗していた他のご家族、お母さんもお兄さんも亡くなられ、唯一の生存者である彼の延命措置として、彼が進めていたネフィリム計画、全身の機械化が施された。彼の四肢は、お父さんが身につけていた義肢が再利用されている。
元の美しい顔も、元のたくましい身体も、何一つ残っていない。全身に走る手術痕と、醜さを極めた機械だらけの顔、原型をほとんど留めない大改造手術だった。女たちが愛した姿や、彼自身はもうどこにもない。
ベッドの上で静かに仰臥している機械の彼を、ジッと見つめる。どこまで長生きできるかも含めた経過観察。幸い、生体反応に異常はない。このまま行けば、彼は再び立ち上がれる。今度は、最良の実験動物として。
すっかり醜くなった彼の監察官、世話係に、彼に群がっていた女たちは誰一人として手を挙げなかった。彼と結婚間近だと噂されていた女性研究員は、彼が昏睡状態に陥っている間に、別の男性職員と結婚し、寿退社していた。
彼を独り占めできるチャンスなんて、一生巡ってこない。私は、それなりに評価されつつあった研究を全て他の人に譲り、彼のお世話を買って出た。同僚には元の研究を続けて欲しいと引き留められたが、私にはそれを振り切るだけの権限が与えられていた。
自分の処遇は自分で決める。それだけの地位と権限を、数々の実績で手中に納めていた。それもこれも、彼と同じ職場で肩を並べて働きたいと思ったからーー。
私は寝ている彼の頬を軽く撫で、その硬さと冷たさをじっくり味わった。かすかに残る元の身体、皮膚の肌触りも確かめながら、醜くて可愛い寝顔を独り占めする。
彼のバイタルを入念にチェックしながら、私はデスクの端末に向かい合った。今日に記録を日誌に記しながら、かつて彼と一緒に撮った写真をモニターに表示する。数少ない休暇には、一緒に水族館に行った。動物園にも行った。映画を見て、話題のスイーツを食べ、冬には寒さに体を寄せ合いながら、各地のイルミネーションも見に行った。
でも、今の彼とはこんな記録、思い出を作れない。機械だらけの身体になったからではなく、ネフィリム計画の最高機密になってしまったから。最新の実験を施し続ける被検体でもある彼は、「街」の外には出られない。
モニターのブルーライトを浴びながらキーボードを叩いていると、ベッドの上で彼が目を覚ました。彼は周囲の配線を気にすることなく、肘をついて上体を起こそうとする。私は彼の背中に手を添えながら、生命維持とモニタリング用のケーブルが外れないように手伝った。
「詩恵留、か」
彼は私の名前を呼び、「ありがとう」と言った。私は鼓動が早まるのを感じながら、必死に平静を装い、「ごめんなさい。起こしちゃった?」と言った。
「いや、問題ない」
「そう。良かった」
私はサイドテーブルで充電器に刺さっていたタブレットを取り、ペンを握った。
「気分はどう?」
「体調って意味なら問題ない。精神的な面で言うなら、最悪だ」
彼は、答えに応じてタブレットを操作する私を見上げる。私は上手く視線をかわし、問診票の記入を続けたが、あまりにもジッと見つめられるものだから、折れてしまった。
「何?」
「いや、白衣の天使みたいだと思ってね」
彼は口の端を上げ、ニヤリと笑ってみせた。白衣は着ているが、あくまでも研究者としての白衣だ。
「ご所望なら、お着替えしましょうか?」
私はロッカーを開け、中にしまってあったナース服を、かけてあったハンガーごと引っ張り出した。
「お、気が利いてるね。他にもあるの?」
彼はロッカーの中を覗き込むような素振りをする。私はケーブルが外れないかヒヤヒヤしながら、「大人しくなさい」と彼に注意した。
「いい子にしてたら、後でサービスしてあげる」
「部屋ごとモニタリングされてるんだろ。大丈夫か?」
彼は周りを見回しながら言った。私はタブレットを充電器に戻し、ペンを横に置いた。ケーブルをよけながら、彼の身体へしなだれ掛かる。
「フェイクも改竄も、私の手にかかれば一発よ」
彼は私の言葉に、「それもそうか」と鼻で笑った。
「それに、監視係に見せつけてやればいいのよ」
「それも一理あるな」
彼は私の発言に乗ってきた。が、現状のケーブルだらけではどうしようもない。一旦お預けを食らわせ、監視カメラの映像にフェイクを挟み込む。生命維持に必要な最低限のケーブルだけ残し、他のモニタリングは一旦停止させる。
これで共犯者は、盗撮、盗聴の担当者だけ。報告できるものなら、してみればいい。私は彼の身体に手を伸ばした。