11月9日(木)
安藤さんの手元のカップにも紅茶が注がれた。アップルフレーバーの紅茶で口を少し湿らせ、朋子さんに出していただいたフォークでアップルパイを一口サイズにカットして口に運んだ。
「うん、美味い」
ちょっぴり緊張して反応を待っていた朋子さんより先に、安藤さんが感想を漏らした。ティーカップを手に取り、紅茶を一口飲む。 「紅茶との相性も抜群だな」
朋子さんのサロンではあまり耳にすることがない、ボリュームと迫力のある声に少しビクついてしまう。朋子さんは、安藤さんに向けて口の前で指を立て、ボリュームを下げるように要請する。
隣で安藤さんが反応している間に、朋子さんはゆっくり味を確かめながら、頷いた。一瞬の沈黙が非常に長く感じる。僕は思わず、「お口に合いましたか?」と訊いてしまった。
「非常に美味しい」
朋子さんの評価に、ひとまず胸を撫で下ろした。僕が作った訳でもないのに、妻の名代として妙に緊張してしまった。静かにゆっくり息を吐いて、緊張感を外に出していく。
「私にはちょっと甘い気もするけど、アップルパイだもんね。これぐらいで丁度いいわ」
「味にうるさい朋ちゃんが太鼓判とは、珍しいね」
「味にうるさいとは失礼ね」
安藤さんは、「事実だろう?」と朋子さんに突っ込んだ。著名なガイドブックで星を獲得したお店に連れて行って、ボロクソに言われた経験があるとかないとか、誰かに聞いたような気もする。
言い方には二人とも微妙なトゲがあるものの、表情や雰囲気はとても和やかだ。こんなに楽しそうにしている朋子さんは、僕は見たことがない。安藤さんがいるからこその反応なのだろう。
朋子さんとのやりとりが一息ついたのか、安藤さんは僕の方を見た。
「私までお相伴させてもらって、ありがとうございます」
「ああ、いえいえ」
「プレゼントとかケーキとか要らないって言ってたのに、わざわざすみません」
朋子さんにも、「いえいえ」とおうむ返しに深々と頭を下げた。朋子さんは安藤さんを指差しながら、「この人なんて、前々から来るって言っておきながら、手ぶらで来てるんですよ。おまけに、芽衣さんのアップルパイまで」と言った。
「だって、要らないって言うから」
安藤さんはちょっぴりむくれながら、朋子さんに反論する。
「要らないって言ってても、こうして持たせてくださるんだから、素晴らしい奥さんよ」
「素晴らしい奥さんっていうのは、間違いないね」
安藤さんは大きく頷きながら、もう一口アップルパイを口元に運んだ。
「やっぱり、お姉さまとかお母さまからの指導もあって?」
朋子さんはティーカップを両手で包みながら、僕に訊ねてきた。一瞬何のことかと思ったけど、すぐにアップルパイのレシピのことだと理解した。
「ああ、いやコレは彼女の自己流というか、どこかで見たレシピをそのまま、だったような」
「プロの監修なしで、コレか。へーっ」
安藤さんが隣で、非常に感心した様子で唸っていた。本人じゃないから詳細はよく分からないけど、姉や母の反応を見て微調整を積み重ねた可能性は、なくはない。直接、ああだこうだと言われている姿は見なかったように思う。
「やっぱり、才能のある旦那のところには、才能のある奥さんが嫁いでくるんだね」
「私たちには、長く引き止める才能がなかった、と」
朋子さんと安藤さんは、何やら笑い合っている。その真意は、聞かない方が良さそうだった。