藤倉の記録 vol.2

仮面ライター 長谷川 雄治 幕間のメモランダム

 詩恵留の力を借りて一時的に「街」を出た日から、彼女と顔を合わせる機会が格段に減った。私の身の回りの世話をしてくれる係も、他の女性研究員が担当になったらしく、リハビリの現場に付き添ってくれるのも、詩恵留以外の研究員だった。

 ずっと世話を引き受けていた詩恵留とは異なり、彼女らはシフトを組んで定期的に入れ替わっているらしい。詩恵留のように自分の専門分野で目ぼしい能力を発揮している人材ではないらしく、新しく入っては出ていく下っ端の小間使い、寿退社を前提とする使い捨ての人材のようだった。

 入れ替わりのペースまでは把握していないが、それがどれだけ遅かったとしても、一人一人の顔も名前も、私は記憶できていない。少しでも覚えて心象を良くしようという気すら起こらなかった。

 この部屋で、あるいはこの研究施設で、私と言葉を交わす価値がある人間は、ここのセンター長と各セクターのトップ、他には詩恵留ぐらい。私の有益な刺激やヒント、情報を与えてくれる唯一に近い人物だったのに、週に一度、あるいは月に二、三度顔を合わせられれば良いレベルで、その頻度は格段に落とされていた。

 私は、随分久しぶりに部屋を訪れた彼女に、なぜ頻度を下げたのか、それとなく尋ねてみた。彼女は少々疲れた表情で、小さくため息をつく。

「あなたの計画のためでしょ」

 彼女の口調こそキツかったが、その表情や動きはとても柔らかかった。この部屋で目を覚ました時と、大きな変化はないように思える。私は冗談混じりで、気になっていたことをストレートにぶつけてみた。それでも彼女はいつも通りにテキパキと手を動かし、タブレットに確認した数値を打ち込みながら言う。

「本当に嫌いになったら、いつでも廃棄できるのに?」

 彼女は真剣な面持ちで、点滴を操作した。今触っている点滴に限らず、詩恵留が私の身体に繋がっているケーブルや薬を少しでもいじれば、息の根を止めることも、廃人にすることも簡単にできる。

 生殺与奪の権利は完全に彼女が握っている。その状況下で私が彼女に嫌われたのなら、今も息しているはずがない。詩恵留はニコッと笑顔を見せたが、今は逆効果に思えた。

「あなたの計画を遂行するための下準備、研究開発が忙しいの。ただそれだけの話」

 彼女はそう言い、更に「わざわざ説明しなくても、分かるでしょ」と付け加えた。彼女は私の腕をベッドの中へ戻すと、記録用の端末を充電器に置いた。私はその腕を掴んだ。

「ちょっと、何?」

 彼女は腕を引くが、私は手を離さない。

「また今から、秘密の研究か?」

 重要な被験体、目立つ観測対象となった私では、脱走計画に備えた準備、秘密の活動など出来はしない。その分、彼女が真っ当な他の研究と合わせて、二重、三重のカモフラージュを織り交ぜながら、必要な準備を進めてくれている。

 彼女の専門以外、「街」を出た後の算段も工夫して根回ししてくれているとなれば、まともな睡眠時間も取れそうにない。私は彼女の顔をジッと見つめる。機械特有の白く滑らかな外皮には、表情ほどの疲れは出ないようだ。

 私のセンサーが、勝手に彼女のバイタルを読み取る。そこには明らかに睡眠不足との診断が下されていた。

「あまり無理はするな」

「大丈夫。アナタはそんなこと、気にしないで」

 彼女は再び腕を引き、今度は私の腕を振り解いた。彼女は「じゃ、私はこれで」とそのままの勢いで部屋を出て行った。私はいつものように、一人孤独にベッドに横たわり、天井を見つめる。

 私も研究者だった頃は、寝食を忘れ骨身を惜しまず、目の前の仕事に没頭した。健康や命など、先のことは二の次三の次。とにかく今できること、楽しいことに全力を投じた。それが人のためであり、周りのためであり、自分のためでもあったから。

 彼女も今、彼女なりに研究者として輝こうとしている、限界を超えようとしているのはよく分かるが、それが私の計画のためというのであれば、何かが間違っている。私の杜撰な脱出計画に、命や青春を捧げる価値などない。無事に脱出が叶ったとしても、その先の人生は完全に闇の中なのだから。

 彼女が私の元へ訪れる頻度は更に下がった。今は、月に一度、一時間でも顔を合わせればいい方だ。顔を合わせることがあっても、脱走計画の話や、準備に関する話題は出ない。まさか、どこかで勘付かれでもしたのだろうか。あるいは、研究者として潰されかかっているのでは。

 私は追加の手術を終えた後、担当の技術者に詩恵留のことを尋ねてみた。彼は私の顔を直視しないよう、視線を背けた。

「遊川さんですか? 別に、相変わらず鉄の女って感じですよ」

「勤務時間や、態度は」

「あまり親しくはないので、私も詳しいことは分かりかねますが……」

 彼はそう言いながら、自分に与えられた情報端末を操作して、画面を見下ろした。

「特に変わったところはなさそうですね。残業や退席時間は少し伸びてますが、違反ってほどではなさそうです」

 彼はそう言いながら、私にその画面を見せてくれた。勤怠データを元にしたグラフが何枚か表示されている。確かに、この数ヶ月で突出した変化は見られない。彼女がデータを改竄していなければ、だが。

 私は彼に礼を言い、待機部屋へ戻った。何度か顔を合わせた気がする世話係が、先に部屋へ入っていた。私はベッドの上に腰掛け、彼女が記録用のケーブルを挿すのを待った。近くに来た彼女に、静かに声をかける。

「最近、遊川の様子はどうかな?」

 私の急な発言に、彼女はこちらを向いて一瞬動きを止めた。その表情は、驚きと恐怖に満ちている。私は出来るだけ和やかな表情を作り、ゆっくり同じ質問を繰り返した。すると彼女は、自分の仕事を再開させながら、「最近の遊川さんですか……」と呟いた。

「勤務の様子や、表情は」

 彼女は、手を動かしながら「えーっと」と視線を上に向ける。

「普段、そんなに接点がないというか、みんなの輪に加わらない人なので」

「それはつまり、いじめとか?」

 私の発言に、彼女は慌てた様子で「いえいえ、そういうことではないです」と言った。一応、元部門のトップ。職場内でハラスメントやいじめが横行していたとなれば、無視する訳には行かない。

「遊川さんが人と関わりたがらないというか、一人でいるのが好きみたいで」

 彼女の言い分を総合すると、詩恵留本人がやや内向的で、人とコミュニケーションを取るのが得意ではない、研究者にありがちなタイプのようだ。情報共有が重要そうな職務を女性同士でやっているにも関わらず、輪に加われないとは。

 必ずしも、煙たがられているとは限らない。私と似たようなタイプかもしれない。

「つまり、普段の生活や最近の体調の変化は、本人の自己申告でもないと分からない、と」

 私の要約に、彼女は「そういうことになりますね」と同意した。私が彼女に礼を言うと、彼女は曖昧な返事を返し、私をベッドに横たわらせた。最低限の世話と記録をつけ、早々に部屋を後にする。また、いつもと同じ一人の時間がやってくる。

 私の起こした計画に則って、別の誰かがスケジュール通りに追加の実験や手術を施す。私は自分の部屋に閉じ込められ、日々の記録を取られては次の実験を待つ。たまに詩恵留が世話をしに来て、また次の実験、施策が施される。

 生きているのか、死んでいるのか。私と詩恵留の計画が前進しているのか、遅延しているのか、あるいは中断、頓挫しているのか。自分の置かれた立場、状況、今後の日々がどうなるのか。唯一、「実験動物である」ということだけが確定したまま、何も分からずに時間が費やされていく。

 段々、元の身体や外に出るんだという野望を抱いていたことも忘れつつある。俺はこのまま、詩恵留の手が下ることなく廃棄物へ変化していく。俺はもうダメなんだ。完全に諦めの境地で、来る日も来る日も天井を見上げていた。

初稿: 改稿:
仮面ライター 長谷川 雄治
2013年から仮面ライターとしてWeb制作に従事。
アマチュアの物書きとして、執筆活動のほか、言語や人間社会、記号論を理系、文系の両方の立場から考えるのも最近の趣味。