真境名の覚え書き

仮面ライター 長谷川 雄治 幕間のメモランダム

「本当に、良いんですかい?」

 前歯の欠けた男は、しゃがれた声でそう言った。私は、「ええ、どうぞ」と答えた。

 皺だらけの人懐っこい丸顔の彼は、私の顔をジッと見る。彼は声を震わせ、「どうしてもかい?」と言う。私が毅然と頷くと、彼は目の端に涙を溜め、「寂しくなるなぁ」と荒れた手で握手を求めた。私は彼に世話になった日々を思い描きながら、力強くその手を握り返した。

 これ以上ここに居ると、いつまでも後ろ髪を引かれて動けない。真境名のフリをする間に柔和になった自分に驚きながら、「じゃあ」と一言かけて、颯爽と部屋を飛び出した。

 私は財布と身分証程度の荷物で、三年弱潜伏したススキノの雑居ビルを後にする。時折すれ違う顔見知りに最後の挨拶をしながら、この街で過ごした日々の長さ、出会った人の多さと温かさに、改めて思い至る。

 この風景に詩恵留の姿があれば、私には何の不満もなかった。二人の子供は望めなくても、それなりに幸せな日々を送れると思っていた。寒さには弱い機械の身体、他人のフリをしてモグリの医者、社会的弱者の便利屋をやり続けるのも、不便はあってもそれなりのやりがいはある。ただ、いつまで待っても、詩恵留の姿はそこに加わらなかった。

 知り合いは一人もいない街。誰かとすれ違う度に、今のは詩恵留だったんじゃないかと振り返った。どれだけすれ違っても、どれだけ振り返っても、雪の向こうに本物の詩恵留は現れなかった。

 私は札幌駅近くの月極ロッカーに立ち寄った。ポケットに閉まったままの鍵でロッカーを開け、中の荷物を全て出した。全てと言っても、中身は封筒とナップザックが入っているだけ。解約の申請は既にしてある。窓口のスタッフに鍵を渡し、私は店の外へ出た。

 札幌駅から新千歳へ向かう電車に飛び乗り、空いている座席に腰掛けた。久しぶりに、封筒の中身を取り出す。詩恵留の直筆のメッセージが書かれていた。

 「街」から二人での脱出を画策したものの、考えれば考えるほど不可能であると判断し、彼女は自ら陽動役を買って出て、私一人だけを逃すことに奔走したそうだ。直前にホテルの一室で見せられたメモだと、二人で逃走する手筈だったのに、それも陽動だったようだ。

 私をこんな身体にした直接的な要因、父の車と事故を起こした張本人である真境名大吾、同乗者であった林吾兄弟を協力者に引き込み、裏切ることも織り込んだ上で一人で計画を立てたとは、私が思っている以上に有能な人物だったようだ。

 彼女に仮死状態にされた後、廃棄場で目を覚ました時用意されていたのは、私と同じ体格、構造に加工された真境名大吾の死体。詩恵留が林吾や保安部隊を相手に陽動を買って出ている間、私はそれとなり変わって外へ脱出するという作戦に切り替わっていた。

 変更後の作戦も、全て彼女の手によってアテンドされ、大吾の死体に彼女のメモが、彼女のメモに従って逃走した先、最寄駅のコインロッカーには更に先までの逃走方法を記したノートと、真境名の身分証や財布、預金通帳等が詰め込まれていた。

 私は彼女に導かれるまま、彼女の献身的な撹乱に支援されながら、示されたルートで北海道へ逃げ延びた。中途半端に田舎へ潜伏するよりは街中の方が便利がいいと、彼女の指示に従って、そのまま真境名としてモグリの医者、便利屋としての日々を送ることとなった。

 あの日、彼女がどうなったか詳しくは分かっていない。札幌に到着してから入手した封筒には、「私はもう死んでいるだろう」との文字が踊っていた。同時に、「私に愛があるなら、蘇らせて」と、私と共に未来へ生きるための蘇生計画まで記してあった。

 「街」の設備をどう使って、どう蘇らせればいいのか。私も深くまで知り得ない「街」の秘密、眠らせてある施設の情報まで彼女は私に残してくれた。彼女のデータと、ネフィリム計画の後任候補でもあった真境名の身分証を用いれば、彼女の素性も、「街」や社会に対する復讐も、やりたいようにやれるはず。

 まずは、北海道から大阪へ。あの街に戻って、機会を伺う。詩恵留の最期がどうなったかも、脱走に対する戒めとして、記録が残されているはず。

 私は真境名大吾として、新千歳から大阪空港まで飛んだ。異様な見た目でも、空気中に漂う膨大なナノマシンやジャミングを駆使すれば、何とでも誤魔化せる。万が一には、詩恵留の残したピューパ銃もある。ナノマシンを使役して、座標や人物指定で処理するのも朝飯前だ。

 家族を殺した人物のフリをするのに、特別な感情は特に抱かなかったが、真境名という名前は気に入った。特殊な手術の結果、私の目には見えるナノマシンを駆使して何が起きても、機械仕掛けの神を気取って「何でもあり」も許される。

 大阪に着いてからどうするか、一人で楽しく妄想を膨らませていると、あっという間に飛行機は大阪空港へ着陸した。ここからは、夢洲にある林吾のボロアパートへ赴こう。詩恵留の残したメモに、奴の住処も書いてある。

 私の家族と事故を起こした大吾は「街」に保護され、ネフィリム計画の後任として推薦されるものの、罪の意識を感じたのか、それを断ったとか。一人北海道へ赴任して、現地の社会的弱者の医療を支える仕事に従事したかったらしい。

 殊勝な兄とは異なり、お調子者のところがある弟の林吾は、「街」の威光を使って、身の丈以上に好き放題やっていたらしい。そこを詩恵留に利用され、北海道にいる大吾も巻き込んだ計画へ動員されたようだ。

 詩恵留は、大阪へ呼び出した大吾をピューパ銃の試し打ちに利用し、比較的背格好も近かったということから、私と似たような施術を施し、代わりの廃棄物に仕立て上げた。廃棄場に隠されていた死体が余りにも綺麗だったのは、今も鮮明に覚えている。

 お調子者はお調子者らしく、内通者として裏切ることも予想された。そこで、ミスリードの施策も山のように仕掛け、私へ目が向くのをとことん退けた。私が今もこうして生きていられるのは、全て詩恵留のおかげという他ない。

 私はモノレールや電車を乗り継ぎ、夢洲駅まで辿り着いた。ここから、林吾の住まいまで、後少し。線路沿いに歩いて行けば、川が見えてくる辺りにボロアパートが見えてくるはず。

 私はジャミングを一時的に切り、林吾の部屋の前に立った。静かに聞き耳を立てると、平日の夕方だと言うのに、中からテレビを見ている音が聞こえてくる。私は、呼び鈴を押した。中から男の声で返事がした。

「はいはい、今出ますよ」

 ハンコを握りしめた林吾がドアを開け、私を見て動きを止めた。私は彼の口を塞ぎ、ピューパ銃を撃った。彼の体液を分解するように、ナノマシンに指示を出した。彼はその場に崩れ落ちるが、多少物音がしても、周りの住人は何も言ってこないようだ。

 私は彼の身体を部屋の中へ押し込み、部屋に入って後ろ手に戸を閉めた。私は証拠が残らないように林吾の身体を綺麗に横たわらせ、防腐や消臭もナノマシンに任せた。

 彼は余りここで生活をしていないらしく、外見に比べてそこまで汚れていない。しばらくはここで生活し、詩恵留復活に必要な情報、詩恵留の身に起きた当日の情報を探るようにしよう。

 可能なら、この身体ともおさらばしたい。「街」や社会の柵からも自由になりたい。

 まずは、世間の目を欺く職探しから始めるか。できれば、医者としての真境名の身分を上手く使いたい。部屋にあった林吾の端末を触ると、ネオネフィリム構想なるフレーズが目についた。種族の垣根を越えた、真のネフィリム計画だと?

 私は彼の端末を操作しながら、次の策を考えた。まずはこの男子高校生と接触する方法を考えねば……。

初稿: 改稿:
仮面ライター 長谷川 雄治
2013年から仮面ライターとしてWeb制作に従事。
アマチュアの物書きとして、執筆活動のほか、言語や人間社会、記号論を理系、文系の両方の立場から考えるのも最近の趣味。