米利の独白
宿直明けの屋外は、春の陽気に満ちていた。
報告業務をオレに任せ、一足先に勤務を終えたはずの織林は、玄関脇に立っている警備の兄ちゃんと楽しそうに喋っていた。オレを見つけた彼女は、こちらに向かって大きく手を振った。
「なんだ、まだ居たのか」
オレは、黒いロングコートにパンツスタイルの織林を一瞥した。さっきは春の陽気と表現したが、肌を刺す陽光や日向の気温は既に初夏の様相を呈している。彼女の女優めいた大きなサングラスは正解かもしれないが、それ以外の出で立ちは明らかに場違いだ。
オレが織林の横まで来ると、彼女は話を切り上げ、同時に歩き出した。まるで、オレが出てくるまで待っていたような歩きぶり。オレは歩く速度を少し上げ、歩きにくそうな靴を履いた彼女を引き離しに掛かる。
「ちょっと待ってください。一緒に帰りましょうよ」
織林は小走りにオレを追いかけてくると、再び横並びで歩き始める。
「朝まで一緒に過ごした相棒じゃないですか」
「だから、しばらく見たくないんだよ、その顔は」
オレがそういうと彼女は、「え〜、こんな美人の顔を?」と言った。客観的に見て、彼女が自信たっぷりに言うだけの器量は備わっているように思う。そこに異論はないが、それは飽くまでも、外見だけを切り取った場合の話かつ最大公約数的な好みの話。性格その他の中身や、発言の残念さを知る身には「無駄に美人」と言うよりは「美人の無駄遣い」といったところだろう。
背は高く、脚も長いモデル体型だとは思うが、オレの好みとしては物足りない。
オレが向かう先と織林の目的地は異なるはずだが、なぜか彼女は延々とオレの後をついてくる。オレにも聞こえる音量で、一人かしましくしゃべり立てている。
角を曲がれば最寄駅が見えてくる十字路で、織林は「あ」と上を向いて立ち止まった。オレもその声につい足を止め、彼女が見たものを追いかけた。視線の先には、一本だけ植えられていたソメイヨシノがあった。満開の時期を僅かに過ぎ、葉桜と化しつつある。
桜が植えられているのは、街の一角にある小さな公園。遊具も少なく、遊びに来る子どもたちも滅多に見かけない。織林はその公園へ足を踏み入れ、桜の近くに備え付けられていたベンチに腰を下ろした。彼女はオレを手招きする。
「先輩もほら。隣、空いてますよ」
彼女はベンチの空いた場所を手で示すが、オレはそれを無視して駅へ向かうべく足を動かした。織林はベンチから腰を上げ、オレの側までやってくる。
「どうせ、今年のお花見してないんでしょ? 今、しましょうよ」
彼女はオレの腕を取り、力尽くで公園の中へ引き入れようとする。オレが「いいよ、別に」と何度言っても、彼女はオレの腕を離そうとしない。
「彼女も居ないって言ってたし、一緒に行く人もいないんでしょ? 昼勤のみんなは今日やるって言ってたし、今見ないと、なんか悔しいじゃないですか」
彼女が居ないのも、一緒に花見スポットへ出かけるような予定も今の所は無いが、織林の私情に無理矢理付き合わされる道理も、オレにはない。ただ、このまま解放してもらえるとも思えない。オレは渋々彼女の提案に乗り、その公園で花見をしていくことにした。ただ、織林の隣には座ってやらない。
観念したオレがベンチの側で桜を見上げていると、織林は「あ、そうだ」とカバンから財布を取り出した。
「お花見に大事なものを、忘れてました」
彼女はそういうと財布だけを握り締め、公園の出口へ向かう。出口で足を止め、こちらを振り返る。
「すぐ戻って来ますから、待っててくださいね」
織林は笑顔を浮かべながらも、力強い目で小さな子供へ言い聞かせるように言った。オレは、「ああ、分かってる」と答えた。彼女はオレの言葉を素直に信じ、公園を出て行った。このまま律儀に彼女の荷物を見張っている道理もないのだが、約束したからには最後まで付き合おう。
このまま帰っても、風呂に入って飯を食って寝るだけ。五分、十分も付き合えば、織林も満足するだろう。かなり面倒臭い相手とは言え、一応は相棒だ。少しぐらいご機嫌取りをしておいてもバチは当たるまい。
一人でベンチに腰掛け、一本だけの葉桜が時折散っていくのを眺めていると、ビニール袋を下げた織林が、息を切らしながら戻ってきた。袋の中には、飾り気が少ない切れ味強めの銀の缶が二本入っていた。
コレを下げて走って戻って来たとなると、嫌な予感しかしない。織林は「先輩も、同じので良かったですよね」などと言いながら、中の一本をオレに差し出した。オレは何も言わずに受け取り、彼女が先に栓を開けるのを待った。織林は器用に、中身を噴き出させずに開けると、即座に口をつけた。
悪い方に考え過ぎかもしれないとも思いつつ、噴き出してもいい方向へ口を向け、ゆっくりと栓を開けた。プルタブを持っていた手は少々濡れたが、大惨事は免れた。本来なら自宅で風呂に入った後に味わう一杯。織林の隣とは言え、仕事終わりの一杯は旨い。
「いやぁ、平和ですねぇ〜」
織林は缶ビールを片手に桜を眺めながら言った。彼女の足元には、踏まれまくった桜の花びらが散っている。
「西の空き地署に配属って言われた時はどうしようかと思いましたけど、良いところですね。残念ながら、歯ごたえのある事件には遭遇しませんけど」
「事件も事故も、オレたちの出番なんてない方が良いんだよ」
織林は「そうですよね。失礼しました」と、舌を出して笑う。この街で起こる事件なんて、せいぜい酔っ払い同士の喧嘩か、クソガキの万引き、たまに少額のコンビニ強盗や心中めいた事件が起こるぐらい。今日も、駐禁トラブルとか夜中の痴話喧嘩とか、その程度だった。
「空き地署って言い方は、止めとけよ。空き地だったのは、せいぜい二〇〇年前までだ」
「重ね重ね、すみません」
織林は後頭部を触りながら、オレに謝った。オレも内心では空き地とか、忘れ去られた土地のように思っているから、謝られる筋合いもないのだけど。
オレは缶ビールをさっさと飲み干すと、財布から五百円玉を取り出して織林に押し付けた。彼女が受け取りを拒むのなら、カバンの中に放り込むまで。彼女は、「良いですよ、別に。私のワガママですから」と言うが、オレは「後輩の利益供与は受け取れないね。お駄賃も込みだ。取っておけ」と言いながら、空き缶を握りつぶした。
オレは「さて」と声を出して、ベンチから腰を上げた。まだビールが残っている織林は、急に立ち上がったオレを見て、「先輩?」と声を上げた。オレは「ごゆっくり、どうぞ」と言い残し、公園を後にする。背後で、織林がかまびすしい。
オレはまっすぐ駅に向かった。途中の自販機に備え付けられていたゴミ箱へ空き缶を捨て、改札前まで行ったのに、電車には乗らずに駅を通り抜けた。せっかくの陽気を楽しみながら、ゆっくり帰ろう。
自宅までの道のりをケータイでざっくりと確かめ、鉄道と直交する大通りに沿って、東へ進んだ。歩きながら目に入る木々にも、桜餅のような色合いを見てとることが出来た。折角だし、どこかで和菓子屋に寄って、季節の甘味を買って帰ろうか。
ケータイで近所の和菓子屋を検索し、大通りから外れて小径へ移った。左手前方に、小ぢんまりとした教会が見えた。平日の午前中だと言うのに、外まで人だかりが伸びている。邪魔にならないよう、向かいの歩道から前を横切ると、白い衣装に身を包んだ男女が奥の方に見えた。どうやら今から、結婚式のフィナーレのようだ。
桜吹雪も浴びながらの結婚式とは、なんとも幸せそうだ。見知らぬ二人の前途を密かに祈りながら、オレは向こうの方に見えてきた和菓子屋の幟に心を躍らせた。