寒暁のノクターナス(仮) 第十六話
一体何をどう間違えれば、大して仲良くもないお局様と差し向かいで炬燵に入って鍋を突くことになるのだろう? それも、スーパー銭湯で裸の付き合いをした後に、夕景や夜景が綺麗に見えるテラス席で、寒さに震えながらーー。
「ほら、若いんだからもっと食べなきゃ」
化粧水や乳液を塗りたくってテカテカの顔をした宍戸さんは、私のペースなど気にすることなく、空いた小鉢にドンドン肉や野菜を放り込んで行く。自分で誘った割に、彼女自身はもう満腹のようだ。
私もそろそろお腹いっぱいだが、彼女はテーブルの端にあったメニューを手に取ると、指を差して何やら確かめている。どうやら、デザートのことを気にかけているらしい。私が手を止めて見ていると、「ほらほら、ドンドン食べて」と煽ってくる。
なんとなく色んなことが上手くいかないとオフィスで腐っていた私を、気分転換だと近場の温泉へ連れて来てくれたのはありがたかったけど、やっぱりこの人とは仲良くなれそうにない。
締めの雑炊はご飯を少なめにしてもらい、なんとか残りも一人で平らげた。私が食べ過ぎでひっくり返っていると、宍戸さんは大変美味しそうにデザートの抹茶アイスを頬張っていた。
「早く食べないと、溶けちゃうよ?」
私はゆっくり身体を起こし、「分かってます〜」と口を尖らせながら言った。アイスぐらいなら、少々無理してもなんとか入るか……。
宍戸さんのペースに合わせて食べ切ると、私がゆっくり帰り支度を整えている間に、彼女がささっと全額払ってしまった。私が財布を出そうとすると、彼女は「いらない、いらない。私が無理やり誘ったんだから」と突っぱねた。
施設の入館料も出してもらったのに、なんだか申し訳ない。私は財布を握りしめたまま、「すみません。ありがとうございます」と礼を述べた。会計を終えた彼女は、カバンの底から普段はつけないマスクとメガネを取り出した。
ほぼすっぴんの彼女と共にスーパー銭湯の出口まで来ると、彼女は上手に素顔を隠した。
「じゃ、私はここで」
宍戸さんは私に手を振ると、足早に駅の方へ歩いて行った。私はその背中を見送り、腕時計で時間を確かめた。時刻はまだ午後七時になっていない。結局、忘年会シーズンで旦那の晩御飯を作らなくていい彼女に、体よく付き合わされてしまっただけらしい。
「ま、それでもいいか」
私は寒さに身を縮めながら、腹ごなしに歩き始めた。それなりに飲み食いした気がしたけど、最初に出て来たサービスドリンク以外、お酒は注文しなかったっけ。食前酒の酔いなんて、もうほとんど残っていない。
コンビニにでも立ち寄ってから、部屋で宅飲みっていう手もあるにはあるけど、それで良い気持ちになって、寝足りない同居人に迷惑をかけるようなことも出来れば避けたい。そのうちどうせ帰るのだけど、それはもう少しブラブラしてから。
何か用事はないか、頭を捻ると一つだけ手頃なものに思い至った。もう一度、犬上さんの事務所へ行ってみよう。昼間は空振りだったけど、この時間ならいるかもしれない。広いお風呂へ入ってリフレッシュした今なら、ダメダメなあの時よりマシなはず。
今度こそ上手く行くと、ちょっぴり勇み足で事務所の前まで来てみたけど、空振りに終わった昼間と、様子は全く変わらない。ドアをノックしてみても反応はないし、明かりも灯っていない。そもそも、アレから出入りした痕跡も見当たらない。ゼロくんみたいに、しばらく出かけたままの仕事もあるのだろうか。
私は首を傾げながら、人気のない地下二階から一つ上へ上がった。ここまでの散歩と、階段の上り下りでそれなりにお腹も落ち着いてきた。前に店番をしたことがあるそこのバーへ、足を踏み入れてみる。もしかしたら、犬上さんもこっちでお客さんからの連絡を待っているかもしれない。
淡い期待を込めて奥へ進むと、あっさりと裏切られた。今日はそういう日だ、仕方ないと、店員さんの案内に従って空いているカウンター席へ納まった。私は上着と荷物を店員さんに渡しながら、ちょっと早まったかなぁとお店に漂う雰囲気に気圧される。
「あれ、茂上か?」
耳馴染みのある声に振り向くと、オフィスには丸一日顔を出していない編集長がそこにいた。いつもの格好でお店のマスターらしき人と近くで話していたのに、緊張のあまり全く気が付かなかった。
「編集長こそ、どうして」
「マスターにちょっと相談があってな」
編集長は随分親しげに、マスターを紹介してくれた。編集長によると、彼とマスター、犬上さんは昔からの知り合いらしい。口ぶりからすると、このお店には編集長もよく来るようだ。
「こっちは茂上、ウチの記者だ」
編集長に促され、私は「どうも。茂上です」と名乗った。マスターのオサカベさんは、柔らかい笑みを浮かべ、「よく存じております」と言った。
「以前、犬上さんの代わりに店番をしていただきましたよね?」
マスターは深々と頭を下げ、こちらも「その節は」と相手に合わせた。編集長は首を傾げながら、「そんなことがあったのか」と呟いた。
「ま、後はご両人で」
編集長は腕時計で時間を確かめながら、慌ただしそうに身なりを整えた。彼は私を指し、「こいつの会計は私にツケといてください」とマスターに伝えた。
「良いですよ。自分で払いますから」
編集長はカードで支払うと、「良いから、良いから。気にするな」と財布をカバンに突っ込んだ。彼はマスターに、「じゃ、また来ますんで」と声を掛けると、そそくさと店を出て行った。
こんなところで油を売っているのなら、いない間の仕事の話をしたかったのに。編集長の背中を目で追っていた私の前に、マスターは綺麗に注いだビールをそっと置いた。品良く佇むビールグラスが、狸が描かれたコースターの上でお行儀良く立っている。
マスターは「ごゆっくり」と一言言うと、静かに自分の仕事へ戻って行った。一つ一つの所作に無理や無駄がなく、水の中を泳ぐ鯉のような美麗で丁寧な動きは、いつまでも飽きることなく、ボーッと見ていられそうだった。
私は不意に、手元のメニューを開いた。パラパラと眺めてみて、編集長の申し出を受けておいて良かったと胸を撫で下ろした。編集長のおごりなら、ミックスナッツもカクテルも、何を注文しても怖くない。滑らかでクリーミーな泡がとても美味しいこのビールも、もう一杯ぐらいは頼んでおきたい。
「何か、注文されますか?」
さっき案内してくれた店員さんが、私の側へやって来た。私は慌ててメニューを閉じ、「また、後ほど」と言うと、彼は「失礼しました」と頭を下げた。見るからに大学生のアルバイトくんだろうに、マスターの教育が行き届いているらしく、立ち居振る舞いは完璧に思えた。中身もきっと、私より大人なんだろう。
手持ち無沙汰な私の目は、他のお客さんの元へ離れていく彼のことも、何となくで追いかける。お客さんはほぼ全員彼より年上だろうに、彼は臆することなく、堂々たる振る舞いで応対している。たまに失敗したように見えても、大きく凹むことなく、自分がなすべきことに取り組んでいた。
「私とは大違いだなぁ」
私は彼の働きぶりを見ながら、グラスを傾けた。朝から犬上さんや編集長のことで空振りしたり、先輩のことが気になって集中できなかったり、ゼロくんとも微妙に噛み合わなかったり。些細なことで躓いて腐るなんて、社会人としてまだまだだわ。
「ご来店時より、良い顔してますね」
また私の近くを通りかかった店員さんが、ニヤニヤ笑いながら言った。その近さに思わず、「生意気だぞ、少年」とこちらも微笑んだ。彼にビールのおかわりと、ミックスナッツを注文し、空になったグラスを手渡した。