寒暁のノクターナス(仮) 第十八話

仮面ライター 長谷川 雄治 寒暁のノクターナス(仮)

 欠勤の連絡を入れた後、半ば意識を失うように眠り続けた。隣の部屋に人がいるとは思えないぐらい静かな環境で、お昼過ぎぐらいまで一度も目を覚ますことなく、寝入ってしまった。

 そのまま丸一日寝ていてもおかしくなかったのに、風邪が早く治るようにと余計に暖かくして寝たために、物凄い寝汗をかいた不快感で目が覚めた。寝過ぎで多少ボーッとするけど、熱っぽい感じは大分マシになった気がする。私は枕元へ置いた体温計を取ると、脇に挟み込んだ。計測が終わるまで、ベッドの上で上体を起こしてじっと待つ。ピピピッと音が鳴ったから抜き取ると、液晶部分には七度二分と出ていた。

 あらかた治った気でいたけど、額に手を当ててみても、体温は若干高い気がする。まだもう少し、家の中で大人しくしておいた方が良さそうだ。ベッドを抜け出して、寝汗を流して着替えたい気もするけど、濡れタオルで身体を拭いて、着替えるぐらいに止めておこう。

 私は少々ふらつく身体をどこかへぶつけないよう気をつけながら、リビングへ移動した。食卓の上には、珠緒さんが買ってきてくれた風邪薬が置いてある。総合風邪薬の箱の下には、手書きのメモが挟んであった。どうやら、彼女お手製のうどんが冷蔵庫に入れてあるらしい。

 麺と具が分けてあるから、メモに従ってレンジで温めて合わせれば、そのままお昼になるようだ。私は冷蔵庫から目当ての品を取り出して、メモ通りに調理した。温かいうどんを食卓へ運び、両手を合わせて一口啜る。弱った身体には非常に嬉しい味がする。生姜やネギもありがたい。お出汁と卵の優しい味に、珠緒さんの人柄まで滲み出ているのかも。

 流石、現役のシェフ。病人向けの作り置きご飯でも、極上の味がする。普段より動きは鈍いはずなのに、いつもと変わらぬ速度で平らげてしまった。これで、食後の薬も気兼ねなく飲める。

 私は薬を飲むために使ったコップも、うどんの食器も流しに移し、水に浸けた。パパッと洗えばいいのに、今はその気力がない。水に浸けてさえいれば、後からでも何とでもなると自分に言い聞かせ、風呂場へ向かった。脱衣所の棚から未使用のタオルを一枚取り出し、風呂場の洗面器にお湯を張る。一旦自分の部屋へ引き上げ、ベッドの上で寝巻きを脱いでから、タオルをお湯に付けた。シーツを濡らさないよう、可能な限りタオルを固く絞る。

 昨夜は洗面所で寝落ちしてしまったから、結局お風呂には入れていない。元気を取り戻したら、真っ先にシャワーを浴びてやる。そう心に決め、凹凸の少ない身体を上からタオルで拭いていく。外へ行けそうなら、銭湯でしっかりお湯に浸かったっていい。そうだ、そうしよう。

 私は手が届く範囲を拭き終えると、タオルを洗面器に投げ入れ、下着と寝巻きを変えた。今まで来ていた寝巻きと下着、洗面器を持って脱衣所へ戻る。洗面器のお湯は風呂場で捨て、タオルを洗面所で軽く洗ってから洗濯機へ放り込んだ。これも後で、気力が湧いたら自分で処理しよう。今は、とにかく寝てしまわねば。

 不調の波がジリジリと戻ってくるのを感じながら、私は何とかベッドへ舞い戻る。薬が効いてくれれば、元通りのはず。私は掛け布団をしっかり引き上げ、天井を仰いだ。

 ここへ移り住んでから、こんな時間に天井を見上げるのは初めてな気がする。ベッドの中で天井をじっくり眺めるのも、もちろん初めてだ。だからといって、特別珍しいものでもない。これぐらいの賃貸マンションでは、よく見るタイプに思える。

 別に耳を澄ませているつもりもないけど、自分の呼吸がいつもより大きく聞こえる。リビングの冷蔵庫や、すぐ近くを走る電車、表の喧騒も耳に入るのに、隣にいる同居人の存在は全く感じられない。彼も私と同じようにベッドの上で寝ているはずなのに、音も気配も感じない。

 そう言えば、彼がトイレへ立つ姿も見たことがない。私が熱にうなされている間に用を済ませた可能性もあるけど、間違いなく起きている間であっても、そういうそぶりは見覚えがない。

 前の部屋より明らかに騒がしい場所、駅前の地域へ移ってきたのに、そういう暮らしをしている感覚はほとんどない。誰かと一緒に生活しているという実感も薄い。気軽に誰かを呼べる場所ではなくなったことを加味すると、以前の暮らしより一層孤独になったかも知れない。

「ダメだ、ダメだ」

 私は誰もいないところへ向かって、声を発した。余計な思考を頭から追い出すように、首を振る。風邪で気持ちも弱ったところに、自らドツボへハマるような弱気は良くない。病は気から。ウジウジ悩まず、さっさと目を閉じて寝てしまおう。どうにもならないことを考えたって、どうにかできるタイプでもない。後のことは、元気になった私に任せる。

 意を決したところですんなり寝れるとは思ってなかったけど、風邪薬が効いたのか、弱りきった身体が強制シャットダウンをかけたのか、落ちるように寝てしまった。それまでも長々と寝ていたはずなのに、次に目が覚めると夕方を過ぎていた。

 結局、日中はほぼ眠り続けていたことになる。悪い夢も見ることなく、パッと目が開いた。寝過ぎた怠さは若干あるものの、それ以外はかなりスッキリしている。ベッドの中で身体を起こし、念の為体温計を脇に挟む。計測が終わるのを待ちながら額に手をやると、お昼過ぎに測った時ほどは暑くない。ピピピッとなった体温計を取り出してみると、六度五分。私の平熱にはちょっと高い気もするけど、これぐらいの時もある。

 私は枕元のケータイを目の前に引き寄せ、ロックを解除した。寝ている間の電話はなかったが、未読のメールやメッセージは何通か届いている。その中に、宍戸さんからのメールが届いていた。中を開くと、「有給扱いにするから」という連絡だった。未消化の有給と彼女の計らいで、欠勤が有給休暇になった。これは素直にありがたい。私がお礼のメールを認めると、彼女は即座に「お礼は菓子折りか、ランチで良いわ」と返してきた。

 相変わらずの強かさだ。こういうところが頼りになるけど、こういうところが苦手でもある。私は、「じゃあ、ランチで」と返してスマホを枕元に戻した。

 元気になったのなら、先延ばしにした諸々に取り掛からねば。私はまだベッドに潜っていたい気持ちに鞭を打ち、えいやと自室を飛び出した。まずはシャワーと洗濯、それから洗い物だ。自分の晩ご飯も何とかしないと。

 脱衣所へ足を踏み入れ、洗濯機を覗き込むと、中に放り込んだだけの衣類やタオルは入ってなかった。洗濯は回さなかったはずだけど、もしかしてドロボウ? 百歩譲って下着や寝巻きは分かるけど、寝汗を拭き取ったタオルも消えているのはよく分からない。

 首を傾げながら、リビングへ移動してみる。洗濯した覚えのない衣類が窓際で干され、流しで水に浸けただけの食器は、水切りカゴへ綺麗に伏せられている。もしかして、隣で寝ていた同居人がコッソリやってくれた? それなら、下着まで干されるのはちょっと恥ずかしい。

 目の前の状況が今ひとつ整理し切れず、喉が乾いた私は冷蔵庫を開けた。目当ての冷たいお茶は見当たらなかったけど、スポーツドリンクとラップがかけられたお皿が目についた。昼間と同様に、可愛らしい字でメッセージが書かれている。

「珠緒さん……」

 彼女が作ってくれた晩ご飯のラップの上には、私が寝ている間の彼女の活躍が書かれていた。端っこの方に、「我が家のお風呂を使ってください」とも書いてあった。

 時刻は午後六時過ぎ。彼女は一つ下で、もう仕事をしているはず。だからこそのメッセージ。ちょっと、いい人過ぎる。

 私は予定を変更し、先に彼女の料理に舌鼓を打つことにした。食べ終えたら外へ出る準備をして、お言葉に甘えてお風呂を借りよう。頭も気持ちもシャッキリしたら、そのままの勢いでバリバリ仕事を頑張らなくては。

初稿: 改稿:
仮面ライター 長谷川 雄治
2013年から仮面ライターとしてWeb制作に従事。
アマチュアの物書きとして、執筆活動のほか、言語や人間社会、記号論を理系、文系の両方の立場から考えるのも最近の趣味。