奈落の擬死者たち(仮) 第十七話

仮面ライター 長谷川 雄治 奈落の擬死者たち(仮)

 野久保はかつて、子どもたちに誇れる父親でいたいと言っていた。自分の手は決して汚さないと。オレはそんな彼を甘いとも思ったし、誇らしいとも思った。

 死んだと思った彼が別人になって目の前に現れた時、別人として細やかなドライブを楽しんだ時も、それはそれで喜ばしく思った。

 だが、その後ろにロジャーや後ろ暗い金があるとなれば話は違う。その高潔さに魅かれた彼は、なぜそんな男と手を組み、金を受け取ったのか。そんな男のフリをして、平気で妻子の前に姿を現せるのか。

 オレはルリ子のデスクに収まったまま、一人で悶々としていた。当の本人は、いい加減に帰りたそうにしている。オレを部屋から追い出して、施錠せねばならないらしい。

「用事が済んだのなら、さっさと帰ってくれない?」

「あ、ああ。すまん」

 オレは彼女に追い立てられるように、資料を散らかしたまま部屋を出た。彼女は机の散らかり具合に溜め息を吐き、目を逸らすように、壁際のスイッチで照明を落とした。彼女も外に出ると、出入り口のドアが閉まってロックが掛かる。

「それで、これからどうするの?」

 施錠を確かめたルリ子は、オレを見上げる。オレは、「どう、とは?」と聞き返した。

「別に。食事をどうするか、訊いてみただけ」

 ルリ子はそっけない態度で言い放つと、振り返りもせず歩き始めた。オレを置き去りにして、振り切ろうという意思を感じさせる歩きぶりだった。オレも無理に追いかけず、出口まで誘導してくれる先導者ぐらいの距離で追従した。似たような景色が続く迷いやすい「街」の中でも、ルリ子のおかげで迷うことなく外へ出られた。

 オレがどこに出たのか周りを見て確かめている間に、ルリ子の姿は人混みに紛れて見えなくなっていた。彼女には彼女の段取り、予定があるから仕方がない。家やベッドへ押し掛ける誘いでなかったのなら、素直に申し出を受ければよかった。

 オレは人通りの多い夜の街中で、一人途方に暮れている。こんな時、いつもなら牧に呼び出されて仕事の話をするか、「狸」で刑部さんの酒を楽しみながら、カウンターの端で新たな依頼人を待つかのいずれかだったが、そのどちらも無くなった今、コレといってやることもなければ、立ち寄るアテもない。

 どこか適当な店へ入って、適当に何かを食うのも悪くはないが、連れ合いなしでは気が引けるし、無理にコンビニ飯で済ませたり、おひとり様を決めるような腹具合でもない。どうしたものかと周りを観察していると、見覚えのある青年が目の前を横切った。アレは確か、牧のところの色男。手のかかるお嬢ちゃんとは違い、仕事ができるエースだと聞いたことがある。

 オレが「よう」と声を掛けると、相手はこちらの顔を見た瞬間、目を丸くして後ずさった。一拍置いて、なぜかオレに背を向け、来た道を戻り始める。

「おい、ちょっと待て」

 オレが呼び止めると、彼は全力で駆け出した。思わぬ場所で知人に出会う、もしくは見覚えのない人間に声をかけられたからと言って、そこまでして逃げることもないだろう。オレは自分の野生の勘を信じて、逃げた相手を追いかけた。

 牧のところのエースとは言え、記者と汚れ仕事も請け負う探偵とでは、鍛え方も運動量も違う。相手がもう少し若ければ振り切られたかもしれないが、運動不足の三十路越えなら、年の差なんて関係ない。

 オレは土地鑑も駆使して、ヤツを追い詰めた。相手は逃げ場のない袋小路で、壁を背にオレの隙をうかがっている。この路地で逃げるなら、オレを押し倒していくしかない。彼に、それをやり遂げる力があるようには見えなかった。

 オレは警戒を緩めず、彼に質問する。

「なぜ逃げた?」

「別に、逃げてないですよ」

 彼は呼吸を整えながら言った。この程度でと思ったが、オレもそれなりに息が上がっている。彼は肩を上下させ、相変わらず鋭い目で逃げる余地を探しているようだった。

「お前は確か、牧のところの記者だったな」

 彼は声には出さず、頷いた。

「オレが誰かも知ってるな?」

「ええ。以前、挨拶もさせていただきました」

 彼は、緊張感も礼節も保ちながら言った。多少狼狽えても良さそうなのに、この期に及んでもなお冷静とは。潜った修羅場も相当数あるようだ。牧が「エース」と称するのも、この胆力と経験値があるからだろう。

 呼吸が整ってきたのか、気持ちに余裕が出てきたのか、睨み付けるような目つきが若干和らいだ。今にも走り抜けようとしていた構えから、ゆったりとした佇まいへと切り替えている。

「オレのことを認識していて、なぜ逃げた?」

「だから、逃げてないですよ。気を抜いてたところを知人に見られて、恥ずかしかっただけです」

 彼はもっともらしい言い訳を述べるが、全力で駆け出した理由としては疑問が残る。オレはじっと彼の目を見つめた。彼は色男然としたポーカーフェイスで、オレの追求を華麗に躱す。どうやら、尻尾を掴むチャンスタイムは終了のようだ。

 オレも相手を威圧するのを諦め、逃すまいとしていた警戒も構えも解いた。その一瞬をついて彼は逃げ出すかと思いきや、余裕の構えでゆっくり近付いてくる。

「そこまで言うなら、一緒にメシでもどうだ?」

「仕事のタネにもならない男性と会食する趣味なんて、僕にはありませんよ」

 オレはカマをかけてみたが、彼は一蹴した。その言い分もごもっともだ。オレも、奢りでもないなら野郎と食事なんて考えられない。奢る、奢られるにしたって、もっと年下か年上でないと考えにくい。

 彼は逃げ道を塞いでいたオレの横を通り過ぎると、こちらを振り返った。

「じゃあ、失礼します」

 彼はその場で深々と頭を下げると、駅の方へ向かって歩き始めた。オレはその場で彼を見送ったが、一定の距離を置いて後を付け始めた。その場の問答ではボロを出さなかったが、コイツは何かを隠している。徹底的に追いかければ、煮詰まっている件のヒント、何らかのキッカケが得られるかも知れない。

 オレは十分な距離を取り、磨きに磨いた尾行を徹底しているにも関わらず、彼は時折周囲を警戒しながら、真っ直ぐ駅へ向かっている。どうやら向こうもこの手の尾行や追跡に明るいらしい。オレの巧みな尾行を持ってしても大した情報は得られず、彼は最寄駅の改札へ吸い込まれて行った。

 わざわざ時間を割いたのに、完全な空振りで終わってしまうとは。牧や刑部さんという助けがなければ、オレは満足に尾行の一つや二つもできないのか。コレでは廃業待ったなしだなと、背中を丸めて駅前をブラブラしていると、黒尽くめでヒョロ長い怪しい人物が目に入った。一応、裏社会、裏稼業を営む人間なのだから、もう少し振る舞い方を考えれば良いものを。

 オレは悪目立ちしているソイツに声をかけた。相手は頭の上からオレを睨み付ける。

「ああ、何だ。オジさんか」

 声を掛けたのがオレだと分かると、彼は眼光を微かに和らげた。オレは彼に、「もうちょっと気をつけろ」とアドバイスしつつ、本題を切り出す。

「お前と言うか、お前のところの姉ちゃんに頼みがあるんだが」

 オレはポケットを探り、小さな機械を取り出した。それを彼に押し付ける。彼はそれを受け取り、街灯にかざして中身を確かめる。

「コレが、何?」

「ソイツを姉ちゃんに渡して、同僚のカバンか何かに仕込んで欲しいんだ」

「同僚?」

「あー、ええっと、色男って言えば分かると思う」

 黒尽くめの少年は、小刻みに頷くと「分かった。伝えておく」と機械をコートのポケットへ突っ込んだ。牧はあまり良い評価を下していないが、何だかんだで良い仕事をしてくれるあの姉ちゃんに、今度も手を貸してもらおう。

 小僧は挨拶も告げず、オレに背中を向けて歩き出した。悪目立ちしていると思ったが、一度人混みに紛れるとそれなりに分かりにくくなる。後は、剥き出しの殺気を何とかすれば完璧なんだが、ダダ漏れだからこそ、人が近付いてこないのかも知れない。

 オレは心の中で少年と、その先にいる姉ちゃんに、「頼んだぞ」と呟いた。

初稿: 改稿:
仮面ライター 長谷川 雄治
2013年から仮面ライターとしてWeb制作に従事。
アマチュアの物書きとして、執筆活動のほか、言語や人間社会、記号論を理系、文系の両方の立場から考えるのも最近の趣味。