5月13日(土)
随分久しぶりに見るような気がする哲朗くんの顔付きは、いつの間に精神と時の部屋に入ったのかと思うような変貌を遂げていた。隣のテーブルでやいのやいのと姦しく打ち合わせに興じている瑞希たちに視線を向けながら、手元のビールに手を伸ばした。
「お義兄さんは、まだ実家に帰らないんですか?」
彼は僕の目をジッと見つめてくる。問い詰めるようなトーンというよりは、ゆったりとした、たっぷり息を吸ったような低めの声だった。
「君のお兄さんになったつもりは、まだないんだけど」
彼は「あ、すみません」と口では言うものの、そこに余り意識は向いていないようだ。あくまでも悠然と僕の言葉を待っている。彼に対して悪意はないのだろうけど、ささやかないたずら心が異様に引っかかる。とはいえ、それに過剰な反応を示すのも、それはそれで大人気ないと言うか、カッコ悪いと言うか、己の美学に反する気もする。
できるだけさり気なく、かつ素っ気なく聞こえるように「そのうちね」と答えた。彼は、自分の口の中で「そのうち?」と繰り返すと、少しだけ身を乗り出した。
「来月は、みぃちゃんの誕生日ですよ。それも、二十歳の」
彼は瑞希の方へチラリと視線をやった。指折り数えれば、と言うかちょうど3週間後の土曜日が、彼女の誕生日。土曜日だってことで例年より気合が入っているらしい、とは聞いているけれども、それに出席しないのか、という圧のつもりだろうか。
とうの昔に実家を出た身にとっては、たとえ記念すべき二十歳の誕生日だったとしても、弟妹のその後にはそこまで興味が湧かない。健康でいさえすれば、勝手にやってくれとしか思わないし、彼も自分の妹にはそういう態度じゃないかと思うけど、どこまで行っても彼には「大事なみぃちゃん」だもんな。
どう答えるか考えている間に、隣のテーブルから自分のグラスを持って沙綾がこちらに移動してくる。
「随分ラブラブなのに、みぃちゃん以外の女に手を出してるんだって?」
沙綾はシレッと情報をぶっ込んで、届いたばかりの唐揚げに手をつけた。哲朗くんの顔に漂っていた余裕綽々といった印象が、一気に退いていく。
「それは興味深いな。本当なのか? 哲朗くん」
彼は「あ、いや」とさっきまでの勢いが微塵も感じられないぐらい、縮こまる。僕を「お義兄さん」と呼んだ時と同一人物とは思えない。
「私は別にいいと思うけど。そういうお年頃だし」
沙綾はあくまでも淡々と振る舞っている。初耳の貞操観念を隣で聞かされている同棲相手としては、その堂々たる態度に何とも言えない衝撃を密かに受けている。
「プラトニックなんです〜って下手なヤツより、場数踏んでてそこそこヤレる相手の方がいいじゃない?」
それは分からんでもないが、哲朗くんみたいなタイプにそういう話はパンチが強すぎる気もする。そちらをチラリと見やると、存外なんでもないような表情で沙綾の話に相槌を打っている。
「でも、みぃちゃんを不安にさせるのは良くないな〜」
沙綾の言葉に、哲朗くんは「確かに」と深く頷いた。
「分かってるなら、もっと言葉と態度で示せ〜。私の大事な友達、悲しませたら承知しないからね」
彼女は、指で摘んだ唐揚げの先で、哲朗くんを指した。彼は申し訳なさそうにペコペコ頭を下げている。僕はなんとも言えない不思議な気持ちを肴に、ちょっと温くなったビールを胃に流し込んだ。