11月6日(月)
このところ残業続きだったから、早めに仕事を切り上げて帰ってきたのに、リビングでカバンを置いたところで、大事なことを忘れていたと気がついた。カレンダーの木曜日のところに付いている印、繰り返し見ていたはずなのに忙殺のあまり、記憶から消していた。
Googleカレンダーにも妙なところにスケジュールが入っていると思っていたけど、朋子さんの誕生日じゃないか。社長があまり強調しないから、完全にスルーしている。
「木曜日、お義母さんの誕生日だよな」
キッチンで夕食の準備をしてくれている沙綾に、気まずいなりに声をかけた。彼女は明るく「そうだよ」といいながら、暖かい豚汁をカウンターに置く。
「あ〜、でも、無理しなくていいよ。お母さんからもそう聞いてるし」
沙綾は笑顔で言うと、僕に背中を向けて炊飯器の蓋を開けた。二人分のご飯をよそってくれている。僕は彼女が用意してくれた食事を、順番に食卓へ並べていく。沙綾は自分のご飯茶碗を持って食卓につくも、グラスを出していることに気がついて冷蔵庫の前へ戻って行った。
ビールを持って再び椅子に腰掛けると、二つのグラスに均等に中身を注いでくれた。沙綾は空っぽになった缶を脇に除け、僕にグラスを持たせて勝手に乾杯すると、勢いよくビールを飲んだのちに両手を合わせ、「いただきます」と食事を開始した。僕も勢いに負けてビールを飲むも、一口飲んだ後で「いただきます」と挨拶をしたものの、箸を取って食べ始める気にはならなかった。
沙綾は自分で作った豚汁を一口食べ、「うん、美味しい」と自分に感想を述べる。豚汁にもメインの焼き鮭にも箸を付けない僕を見て、彼女は「どうかした?」と言った。
「お義母さんの誕生日だって言うのをすっかり忘れてて、仕事がさ」
「佳境なんでしょ? 知ってるよ」
タイミングが非常に悪く、今週末が期日だった。その前日に早期に切り上げてお誕生日会というのは、今からでは何ともしようがない。
「本っ当に、ゴメン」
「だから、気にしなくて大丈夫だって。大丈夫じゃなかったら、ボスがそんなスケジュール組まないでしょ?」
沙綾は僕のことなど微塵も気にせず、自分の食事をどんどん進める。彼女の言うことも一理ある。とはいえ、あの社長は社長で、自分だけはきっちり出席したりするんだろう。
「だから、冷める前に食べて欲しいな」
「あ、ああ。ゴメン」
沙綾は「謝らなくていいから」と笑って言った。僕はようやく箸を取り、豚汁から口をつけた。生姜がたっぷり効いていて、非常に美味い。
「お義母さんの誕生日会は、夏にやったよね。お義父さんの誕生日は?」
沙綾が記憶を辿るように上を見ながら、僕に訊ねた。
「親父の誕生日は年末。30日」
「ふーん。で、おいくつになるの?」
沙綾の質問に、「え、あれ?」と言葉が詰まる。親父って今、いくつだっけ。
「寅年っていうのは聞いたような気がするんだけど」
沙綾は箸をおいて、スマホを取り出すと「寅年」で検索する。
「流石に60歳以上には見えないから、1974年生まれの48歳で、来月49歳?」
沙綾の答えで恐らく合っている。僕は頷きながら、「ああ、そうじゃない?」と答えた。
「じゃあ、お祝いしなきゃ」
「いやいや、いいって」
実家で一緒に生活してた時から、親父の誕生日を祝った覚えがない。年末の忙しさも相まって、適当に扱われていたのかもしれない。僕が「いい」と言ったのに、沙綾は「私がやりたいの」と話を聞いてくれない。
彼女が一人で乗り気でも、親父の誕生日会なんて実現するはずがない。ただ、ほぼマブダチの瑞希や最近妙に仲が良くなってきた晃を取り込めば、可能性はいくらでもあるのか。彼女がやるなら、そこに俺も出席せざるを得まい。
食べ始めたときとは違う億劫さに、箸の進みが遅くなる。「冷める前に早く食べちゃって」という沙綾の声を聞きながら、半ば機械的に手と口を動かした。