11月30日(木)

 前の予定が微妙に早く終わり、約束の時間にはまだ大分早い。とはいえ、一度自宅に戻ってから、もう一度出直してくるには微妙な時間。近くの喫茶店で時間を潰すぐらいなら、ダメ元で聞いてみよう。
 カバンから社内用ケータイを取り出し、Mサイズのオフィスへ電話をかけてみる。香織さんが少々他所行きの声で電話口に出た。
「あら、ルミちゃん。お休みじゃなかったっけ」
「休みは休みなんですけど、武藤さんと約束してて」
 私はこの後のアポイントについて香織さんに説明すると、武藤さんは外出中らしい。
「私もそろそろ、お昼休憩に出ちゃうけど……」
 香織さんはそこで言葉を切ると、電話の向こうで「哲朗はいる?」と聞いていた。送話口を塞いでいるのか、微かにくぐもったやり取りが聞こえると、香織さんの声が再びはっきり聞こえてきた。
「哲朗はいるらしいから、何時来ても大丈夫よ」
「わざわざ、すみません。ありがとうございます」
 香織さんは「いえいえ〜」と出た時と同じく、良き母親っぽい声で別れの挨拶をして、受話器を置いた。
 哲朗くんがいるのなら、何か要るものがないか訊けば良かった。差し入れというほどでもないけど、途中のコンビニで無糖の炭酸水でも買って、持って行ってあげよう。彼がいらないというなら、この後の水分として持ち歩けばいい。
 JRの駅前商店街を抜け、途中のファミリーマートで500mlの炭酸水を一本買った。会計を済ませながらスマホで時刻を確かめると、当初の予定よりまだ30分ほど早い。何時でも大丈夫と言ってたし、言葉を信じてオフィスへ行ってみよう。
 意を決してビルの中に足を踏み入れ、そのままMサイズのオフィスまでエレベーターで上がる。ドアの前までくると、電気は間違いなく点いていた。普段ならそのまま開けて入るけど、一応3回ノックして「失礼しま〜す」の声と共にドアを開いた。
 目隠しになっている棚の向こうから「は〜い」と声が聞こえ、棚をグルっと回って哲朗くんがドアの前までやって来た。彼は私の顔を見るなり、「ああ、どうも」と微笑んだ。
「新刊の受け取りですよね〜」
 彼は「どうぞ」と応接スペースへ私を誘導し、オフィスの隅に積み上げられている段ボールの方へ向かった。その背中に「誰?」と女性が問いかけると、彼は背中を向けたまま、「ああ、小野寺さん」と答えた。
 哲朗くんと入れ替わる形で、上坂さんが応接スペースへ顔を出した。私が「こんにちは」というと、あちらも同じく「こんにちは」と会釈し、哲朗くんの方を見た。
「ねぇ、お茶って入れたほうがいいの?」
「ああ、いいのいいの。すぐに帰るから」
 上坂さんの問いに哲朗くんが答える前に、私は身振りも合わせて断った。手に下げていたビニール袋に炭酸水が入っていたことを思い出し、それを上坂さんに差し出した。
「一本しか買ってないんだけど、差し入れ」
 上坂さんは「どうも」と受け取りながら、ヒイラギの最新号を持ってきた哲朗くんの方を振り返る。彼はその視線を受け止めながら、私に「ありがとうございます」とお礼を述べてくれた。
「コレ、ですよね。一冊で大丈夫でした?」
 彼は「一言言ってくれれば、自宅まで届けたのに」と言いながら、新刊を差し出した。私は「一冊で、大丈夫」と頷いて、それを受け取る。パラパラっと中身に目を通し、少々重みのあるそれを、カバンに仕舞った。
 視線を感じて顔を上げると、哲朗くんが私の方をじっと見ていた。
「なんか今日、雰囲気違いますね」
「そう? いつもと一緒だよ」
 いつもと違うところがあるとすれば、今日は完全にプライベートな服装という程度。
「あ、もしかしてデートですか?」
 哲朗くんの横で冷静に私を眺めていた上坂さんがボソッと呟いた。哲朗くんは、「え、そうなんですか?」と少々驚いた様子で言った。
「だって、髪型とかメイクとか」
「あ〜、確かに。今日はより一層、綺麗というか可愛いというか」
 上坂さんの分析に、哲朗くんが頷きながら同意する。全然そんな予定はないけど、褒められる分には悪い気はしない。このままいい感じに、サッと引き上げねばーー。

初稿: 改稿:
仮面ライター 長谷川 雄治
2013年から仮面ライターとしてWeb制作に従事。
アマチュアの物書きとして、執筆活動のほか、言語や人間社会、記号論を理系、文系の両方の立場から考えるのも最近の趣味。