6月26日(月)
「あの朋ちゃんが、臨時休業するなんてな」
女性専用のサロンスペースに、普段なら出入り禁止のおじさんが自然体でコーヒーを飲んでいる。自分が手土産に持ってきたお菓子を摘みながら、のんびり身体を休めている。
彼はコーヒーの湯気で曇ったメガネを拭きながら、ゆったりとした低音でボソッと呟いた。
「やっぱり、歳かね」
「エアコンと夏バテかしら」
私の回答に、彼は「ああ」と声を出して頷いた。「昨夜も一昨日も、雨だったっけ」と、言った。窓を開けて寝るには少々強い雨脚、エアコンを付けずに寝るには寝苦しい夜が続いていた。
私は、彼が持ってきた書類に目を落とした。疲れている人のためのサロンを、疲れたからと臨時休業するに至った一番の原因を思い出した。
「書類の差し替えなんてメールで十分だったのに、わざわざ菓子折持って来たのは、コレか」
「そう。直前の変更で、本当に申し訳ない」
彼は椅子に座ったまま居住まいを正し、深々と頭を下げた。来週末に予定されている女性起業家向けイベントのタイムテーブル。当初の予定では50分だった基調講演が90分に延びている。
「もう一つの講演が急遽キャンセルになってね。他も目一杯調整したんだけど、コレが限界で」
年齢の割におちゃらけた風貌をしている彼だけど、ふざけている気配はなく、嘘をついているようにも見えなかった。彼なりに精一杯やった結果なら、仕方あるまい。
「私が飲めば、丸く収まるのね」
「できれば、ギャラも据え置きだと助かるんだけど」
彼は「お願い」と顔の前で両手を合わせて、私に拝んだ。彼、安藤憲剛とは長年、持ちつ持たれつでやってきた。友人として、できる範囲の無理はしてあげたい。
「分かったわ。了解。ただし、懇親会の出席は期待しないこと」
「つまり?」
「懇親会は、当日の体調次第」
彼は「了解」と頷いて、手元の資料にペンを走らせた。新しい条件を織り込んだ契約書を改めて郵送することなど、その後の手続きを確認しあった。
彼は自分が広げた荷物を鞄にしまいながら、「コレで一つ、肩の荷が降りた」と言った。「私に押し付けただけでしょ」と、嫌味を返すと、彼は苦そうな笑みを浮かべた。
「そうそう、夏バテだったら江坂に鰻食いに行こうよ」
「え、今から?」
彼はカバンから車のキーを取り出し、「足ならあるし」と微笑む。
「帰りは、お宅の婿殿に送らせるしさ」
彼が帰社する寄り道に付き合って、彼の部下である一輝さんと帰ってくるのも悪くはないが、90分に延びた講演の練り直しも早急に手をつけなくてはいけない。
「白焼きもあるぞ」
彼はグイグイ私の心を揺さぶってくる。バテた頭で考えたところで、下手の考え休むに似たり、か。
「憲ちゃんのポケットマネーってことなら、乗りましょう」
私の一言に、彼は「うっ」と唸って考え込む。少々間を置いてから、「よし、分かった。そうしよう」と覚悟を決めた。
「どうせなら、さっきの書類も片付けちゃおう。ハンコとか、準備よろしく」
彼は「駅前の駐車場で待ってるから」と付け加え、一足先に出て行った。私は急遽出かけることになった自宅サロンの戸締りと、手続きに必要そうな文具を取りに二階へ上がった。