8月2日(水)
施術室を片付け、さっきまで使っていたオイルの在庫を簡単にチェックする。お一人ずつ終わるごとに実施する、落とし物、忘れ物のチェックを兼ねた拭き掃除に取り掛かる。
普段なら、先に表の看板を架け替え、サロンの入り口を施錠した後にやる仕事だけど、今日は最後のお客さんを迎える前に済ませてある。
ベッドの掃除から床の掃除に切り替えるタイミングで、更衣室から沙綾が出てきた。彼女はスマホを見ながら、カウンセリング用のリクライニングチェアに身体を預けた。横の小さなテーブルには、水が入った紙コップが置いてある。それを口元に運びながら、沙綾は「あれ、お母さんは参加しないの?」と言った。
私はウェットシートを付けたモップをかけながら、「急に言われても、土日は忙しいから」と答えた。
「私は都合つけられても、お客様にはお願いできないでしょ?」
「そっか、そっか。一応、予約が取れない隠れ家サロン、だもんね」
床掃除をしているから表情を確かめられないけど、きっと底意地の悪い笑いを浮かべているのだろう。「どこで育て方を間違えたのか」と悩むべきなのか、女優、モデルとして「立派に成長している」と納得すべきなのか……。後者だと思って、無用なストレスを抱えずに忘れてしまおう。
ウェットシートを外し、ドライシートに付け替える。ドライ、ウェットで、もう一回ドライをかけて、入念に拭く。手と身体を動かしながら、さっきの施術や、今日一日の接客を振り返る。収支の確認や反省は、仕事着から着替えた後でいい。
今日も、一回一回の施術をちゃんとやれた。一日中サロンで仕事をしたのは久々な気もする。セミナーやら、交流会やら、他の仕事も楽しいけど、やっぱりココが本業で私の原点なのね。
モップをバックヤードに片付け、カウンセリングスペースに移動する。沙綾はまだリクライニングチェアの上でスマホを触っていた。彼女はチラッと私の方を見るものの、すぐさま自分の作業に戻る。
私は私で立ったまま、デスクのモニターに目を落とす。メールやSNS、チャットツールに、すぐ返信しなければいけないものは飛んできていない。あとは、ココと更衣室の照明を落とし、使わない器具の電源を切ればサロン業は終了なんだけど、沙綾はまだ居座るつもりなのかしら……。
私が顔を上げて沙綾の方を見ると、彼女はなおも、スマホを触っている。私は一つにまとめていた髪を解きながら、「晩ご飯も食べていく?」と彼女に訊いた。沙綾はようやく顔を上げ、首を横に振って、「もう、帰る」と言った。
「今から駅前まで行って、みんなでご飯だから」
「今から?」
私は思わず、時計に目をやった。そろそろ午後七時。沙綾は「そう、今から」と念押しした。彼女はリクライニングを戻して、椅子から腰を上げる。
「迎えがもう着くっていうから、帰るね」
「専属のドライバーがいるなんて、流石は主演女優ね」
「まあね〜」
沙綾は誇らしげに、入ってきた時と同じように、居住用の玄関へ歩を進める。私は彼女を見送りながら、サロンスペースの照明を切るスイッチを押した。