8月16日(水)

 目の前に見えてきた交差点を、たこ焼きささんのある方へ渡る。このまま道なりに行っても問題なく駅には着くけど、微妙に遠回りになる。僕の前を歩く親子みたいな女性二人は、後ろを気にすることなくおしゃべりし続けていた。
「今からでも、うちのサロンでバイトしない?」
 朋子さんはさっきから延々と、鈴木さんを口説いている。さっき受けたマッサージは確かに即戦力だろう。朋子さんの手ほどきを受ければ、のれん分けも早そうだ。朋子さんの支援、プロデュースも女性起業家としては魅力的だろう。
 鈴木さんは鈴木さんで、やんわりと誘いを断り続けている。駅の真下まで来ると流石に朋子さんも諦めたらしい。口説くのをやめて、鈴木さんに名刺を差し出した。
「卒業後でも就職した後でも、気が向いたらいつでも連絡しなさい。人生、あなたが思ってるより、ずっと長いんだから」
 鈴木さんはやや苦笑いをしながら、「ありがとうございます」と名刺を財布に仕舞った。僕のことなんて忘れていたんじゃないかと思っていたけど、朋子さんは僕の方へ振り返った。
「それじゃあ、私はお酒を見て帰るからココで。奥さんにもよろしくね」
 彼女は僕の返事を待たず、颯爽と隣のやまやへ入って行った。僕はその背中に軽く頭を下げ、一足先に改札へ向かうエスカレーターに乗っていた鈴木さんの後についた。彼女は2つ下のステップに立っている僕の方へ微笑んでくれる。
「勝手にマッサージしちゃいましたけど、大丈夫でした?」
 エスカレーターから降りながら、彼女は優しい声で僕に訊いた。Mサイズのオフィスを出てからここまで歩いてきたけど、特に痛いところや具合が悪そうなところは出ていない。このところ、何となく滞っていた何かが無くなった気がして、ちょっぴり軽い気もする。
「いいマッサージだったよ。こっちこそ、急におじさんの身体を触らせてごめんね」
 朋子さんが即戦力だと口説くぐらいなら、タダで受けて良かったのだろうか。高校生の頃、「本気で習いに行った」と言っていたぐらいだから、習得するまでの費用もかかっていたはず。
「マッサージのお礼、本当にいいの?」
 終わった直後にも訊いたけど、彼女は「素人の手遊びですから」と再び断った。
「あそこのケーキとか、そこのお茶ぐらいなら」
 僕は改札横のケーキ屋さんや、改札の向かいにある喫茶店を指しながら言った。鈴木さんは案内表示を横目で見ながら、なんとなく居心地悪そうな笑みを浮かべている。
「引き留めちゃってごめん。気持ち悪かったよね」
「気持ち悪いだなんて、そんな」
 鈴木さんは全力で否定してくれる。
「執筆の機会を提供いただいて、感謝こそすれ、気持ち悪いだなんて思ったこと、一度もないです。あのマッサージも、全然足りないと思いますけど、そのお礼の一つですから」
 京都行きの次の電車が入ってくるというアナウンスが流れた。鈴木さんは「失礼します」と頭を下げ、足早に改札を通り抜けていく。僕は彼女が風のように去っていく様を見届けていた。姿が見切れる前にこちらを振り返り、もう一度頭を下げてくれた姿がとても眩しく見えた。

初稿: 改稿:
仮面ライター 長谷川 雄治
2013年から仮面ライターとしてWeb制作に従事。
アマチュアの物書きとして、執筆活動のほか、言語や人間社会、記号論を理系、文系の両方の立場から考えるのも最近の趣味。