2月21日(火)

「もう一回、行ってくる」
 亜衣はそう言い残し、一人で長い長いローラーすべり台のスタート地点へ戻っていく。映美は私の隣で、朋子さんの愛犬と戯れあっていた。
「梅はもうどこか、見に行った?」
 朋子さんは愛犬のケビンを視野に入れながら、広い公園をぼんやりと見つめている。彼女に首を振って返事をすると、まだ少し肌寒い風が頬を撫でていく。
「まぁ、まだ少し早いわね」
「朋子さんは、どこか行かれるんですか?」
「まあ、適当にね」
 彼女のことだから、そこら辺の公園とかパッと思いつくような有名な梅園には行かないのだろう。詳細はきっと、Facebookかinstagramで知ることになる。
「そうそう、まだ少し肌寒いからって、運動をサボらないこと。旦那さんも巻き込んで、身体を動かしなさい」
 ベンチに座っていた彼女は立ち上がり、ケビンのリードを持って少し大きめにグルッと回った。それに釣られてケビンが、ケビンに釣られて映美が少し遅れて後を追いかける。
「座りっぱなしじゃ、いい仕事できないぞって伝えておいて」
 朋子さんはそう言うと、もっと大胆にジグザグと走っていく。愛犬と私の娘を従えて、遠ざかったり近づいたり、速度を上げたり落としたり。映美でも無理なくついていけるレベルの速さで、運動量を増やしていく。
 滑り台から帰って来た亜衣まで、彼女らの追いかけっこに参加する。「ママもおいで」とお呼びはかかるけど、荷物番は投げ出せない。芝生の上をたっぷり走り回るのを見ていたら、だんだん映美の足取りが重くなって来た。
 朋子さんはゆっくり足を止め、「亜衣ちゃん、ママのところに戻ろうか」とちょっぴり不満そうな亜衣をなだめ、ケビンのリードと映美の手を引いてこちらに戻ってくる。私のところまで来ると、映美はゆっくり船を漕ぎ始めた。
「ごめんなさい。ちょっと、やりすぎちゃった」
「いえいえ。ありがとうございます」
 映美を背負い、なおも遊び足りない亜衣に「そろそろ帰るよ」と伝える。「パパもお家で待ってるし」と言うと、ブーたれた表情がいくらか和らいだ。朋子さんは自分のお散歩グッズを手に持ち、私たちの準備が整うのを待ってくれる。
「今日は、バスだっけ?」
 朋子さんに頷くと、彼女は公園の出口へ歩き始めた。愛犬との散歩にしては随分ゆっくりのペースで少し前を歩いてくれる。
「旦那の提案、そんなにダメでした?」
 手を繋いで歩いている亜衣は、一人で楽しそうに何かの歌を歌っている。朋子さんは「いいえ。とっても素晴らしかったわ」と言った。
「芥川龍之介の『河童』なんて、最高じゃない? この茨木で」
 彼女は「い・ば・ら・き・で」ぐらい、ハッキリと強調した。
「川端康成も嫌いじゃないんだけど、ちょっと推し過ぎよね」
 今度は周りを行き交う人の耳に入らないよう、小声で言った。「ね」のところでウィンクをされて、ちょっとドキッとする。
 犬を連れて歩いても良さそうな道を通り、モノレールの駅を上手に避けて駅前のバスターミナルに到着した。次のバスは16時36分。もうそろそろ、休憩中のバスがグルっとこっちへ回ってきそうな気配。
「あの旦那、きっと、もっといい仕事するわ」
 朋子さんは少し身体をほぐし、ケビンのリードを持ち替えた。
「だから、もっといい仕事ができるようにサポートしてあげてね」
 彼女は「じゃあ」と言うと、かなり足早に自宅サロンの方へ歩いて行った。ケビンも勢いよくついていく。
 ロータリーで停車していたバスが乗り場まで回ってくる。私は映美をちょっと背負い直し、亜衣の手を引いてバスの一番後ろの座席に腰を下ろした。彩都の住宅街へ去っていく朋子さんとケビンの背中に、西から差す陽の光が暖かそうだった。

初稿: 改稿:
仮面ライター 長谷川 雄治
2013年から仮面ライターとしてWeb制作に従事。
アマチュアの物書きとして、執筆活動のほか、言語や人間社会、記号論を理系、文系の両方の立場から考えるのも最近の趣味。