7月4日(火)

 ここ二週間ぐらい空梅雨気味だった反動か、猛烈な雨が降り続いている。阪急は動いているようだが、JRはダメらしい。凄まじい雨の中、オフィスから駅へ向かっても振替輸送で満員に近いらしい。
 幸い、河川の氾濫に至るほどの雨量ではなさそうだけれども、山間の方では高齢者等避難の防災情報が届いていた。雨雲レーダーを見ても、もうしばらく雨は強いままのようだ。
「暗がりの共同トイレは、流石にちょっと怖いね」
 オフィスのドアを開け、セリフとは裏腹に堂々とした足取りで上坂さんが中に入ってきた。さっきまでペンを動かしていた応接スペースに戻った。原稿用紙の上を走る、少し硬そうなペン先の音が聞こえてくる。
「帰らなくていいの?」
 彼女はペンを止めずに、「風邪を引く覚悟で、濡れ鼠になれって?」と言った。
「阪急で帰ったって、そこから先の足がないの」
 彼女はスマホの画面を僕に見せる。お父さんとのLINEは、「迎えに行けない。頑張れ」で途切れていた。
「お父さんに車出してもらうより、ココで一夜を明かす方が安全ってこと」
 夏場とはいえ、もうそろそろ午後八時。強い雨が加わるとなれば、女子大生が一人で出歩くより、ココに籠る方が確かに理に適っている。
「僕が居てもってこと?」
「そこは、何も言ってないけど」
 上坂さんは口元に笑みを浮かべ、僕の肩に触れる。僕は入り口のやや上を見ながら、「一応、監視カメラはあるから」と言った。彼女は「死角の一つぐらいあるでしょ?」と色っぽくささやくと、インクの匂いを漂わせて元の席に戻っていく。
「そんなことより、お腹空かない?」
 彼女は原稿をトントンと揃えながら、僕の方を見て言った。僕もそろそろ晩ご飯にしたかったけど、何かあったっけ。オフィスを出れば、通りの向かいにコンビニぐらいはあるけど、ビルを出て戻ってくる間にずぶ濡れになりそうだ。
 冷蔵庫には社長が置いている酒類とソフトドリンク、従業員が好き勝手に入れているお菓子、お酒のお供ぐらいは入っているけど、お腹を満たすには少々物足りない。オフィスグリコに手をつけるのも、まだ早い。
 自分の引き出しにしまってある秘蔵の食糧に手をつけても構わないが、彼女の分も負担するのは気が進まない。ドリップコーヒーのパックをしまってある棚に、従業員用の非常食もあったはず。扉に手をかけ、中を覗いてみる。
「カップ麺とインスタントの味噌汁とパックのご飯、おつまみ用っぽい缶詰もあるけど、こんなんでいい?」
 僕は、上坂さんが開けてくれたスペースに一種類ずつ並べていく。彼女はそれを見て小さく溜め息をつき、「キッチンはないんだもんね」と言った。「じゃあ、仕方ないか」とカップヌードル醤油味を掴むと、パパッと開封作業に取り掛かる。
「ん? 醤油がよかった?」
 彼女は手を止め、僕の方を見る。僕は「いや、まだあるから大丈夫」と言いながら視線を逸らし、非常食を元通りに仕舞っていく。代わりに割り箸やら使い捨てカップやらを準備しながら、横目で上坂さんの動きを見つめてしまう。
 ありそうでなかったシチュエーションに、正体不明の魅力を感じている。不思議な気持ちに戸惑いながら、気を逸らす方法を探し始めた。

初稿: 改稿:
仮面ライター 長谷川 雄治
2013年から仮面ライターとしてWeb制作に従事。
アマチュアの物書きとして、執筆活動のほか、言語や人間社会、記号論を理系、文系の両方の立場から考えるのも最近の趣味。