3月6日(月)
昼下がりに、駅前の喫茶店でコーヒーを飲みながら、残り僅かな文庫本のページをめくる。臙脂のスピンは、昨日読み終えたところに挟んだまま。
ランチタイムには少し遅い時間帯とはいえ、しっかりしたランチといいコーヒーを淹れてくれるココの店内は、色んな年代のお客さんで賑わっている。目の前で古い友人の昼寝に付き合っている身としては、すっかり薄くなった頭を眺めているよりは、返却期日の近い本の世界に身を投じている方が、気が楽だ。少し冷めたコーヒーを飲み切り、おかわりをオーダーする。
ウェイトレスが新しいコーヒーを持ってきたところで、目の前のおじさんはゆっくり身体を起こし、額に上げたメガネを元の位置に戻す。その仕草ひとつひとつに、おじさん臭さが纏わりついている。
「僕も、おかわりもらおうかな」
彼は寝起きの顔を両手でマッサージすると、近くに来ていたウェイトレスに注文した。ウェイトレスは「かしこまりました」と笑顔で答え、空のカップを持って下がった。
「朋ちゃん、ゴメンね。鼻炎薬でさ」
眠くならない物にすればいいのにというと、彼は、眠くならない奴は効かなくて、と答えた。私の読んでいる本を見ながら、運ばれてきたコーヒーを啜る。
「東野圭吾?」
「そうそう。映画になるっていうから、今度はどんなもんかと思って」
「で、どう?」
私は読みかけの本を閉じ、肩を竦める。彼は「だろうね」とコーヒーを飲んだ。私は文庫本を鞄に仕舞う。
「もういいの?」
彼の問いかけに、小さく頷く。最後まで読み切らずに、返却ポストへ投げ込もうかな……。
「沙綾がこっちに来るのは来月だっけ? ケントは、」
首を振って答える。
「そっか。会わないまま、二十歳、か。元気にはしてるの?」
「向こうで元気に大学通ってる」
彼にしては珍しく、「ケントが大学生か、想像つかないな」と随分しみじみとした様子で呟いた。彼が健人に会ったのは、8歳の頃が最後だっけ。
「4年前の写真ならあるけど、見る?」
「いや、また会う時の楽しみに」
彼の手振りで出番を失ったスマホは、さっきまでいた鞄の中へ逆戻り。
「おっと、もう14時か」
彼は自分の腕時計を見て、カップに残ったコーヒーを飲み干した。
「僕は戻るけど、朋ちゃんは」
私は首を振る。
「じゃあ、お先に」
彼は財布から五千円札を取り出して、私の前に置いた。そのまま流れるように、喫茶店の扉を開ける。お店の外に出た彼は窓の外から私に手を振り、株式会社Mサイズの方へ早歩きで去っていく。
私は残りのコーヒーをゆっくり楽しんでから、駅前をぶらついてバスに乗ろう。駅の向こう側に出て、イオンモールを覗いてもいい。
まだ少し肌寒いけど、だんだん春めいてきた。宇野辺までのんびり散歩して、モノレールを乗り継いで帰るのもアリか。
最後に数ページだけ残った文庫本を、もう一度鞄から取り出した。イオンモールへ行くのなら、中の図書館で返却しよう。どこまで読んだか記憶を辿りながら、「この辺りだった気がする」と手を止める。今一つ肌に馴染まない物語も、最後まで見届けてあげようじゃない。