4月4日(火)

 一輝さんは沙綾が置いて行ったコビトカバの大きなぬいぐるみに微笑んで、私に車のキーを差し出した。
「娘の彼氏を運転手にしちゃって、ごめんなさい」
 彼に椅子を勧め、その前にコーヒーを置いた。彼は「いただきます」と、カップを口元に運んだ。
「お砂糖もミルクもいらなかった?」
「ええ。いつもブラックなので」
 彼は一口飲むと、少し目を丸くした。改めて香りを確かめるようにカップを鼻先で動かし、もう一口飲んだ。
「良かったら、何か作るけど」
 彼はチラリと腕時計に目を落とした。もうそろそろ午後六時。我が家の小さな冷蔵庫に、果たして何が残っていたかを思い出す前に、一輝さんにとても柔らかい表現で申し出を断られてしまった。
「この後、沙綾を迎えに行って、そこから何か食べようかって話をしてたので」
「あら、そう。じゃあ、車使う?」
 さっき受け取ったキーを彼の前に押しやる。彼は手振りを交え、「いえいえ、バスで戻ります」と言った。
「バスがダメなら、モノレールでグルッと。お義母さんも行きます?」
 多少の荷物があったからとはいえ、車で行って戻ってきた道を今からもう一往復する気力は残っていない。
「若い二人でいってらっしゃい。おばさんは、お土産のワインとパンを楽しむわ」
 さっきのパーティ会場で一輝さんが手をつけられなかった物と同じワイン、同じパンを指して、できるだけ嫌みったらしく聞こえるように言ってやった。彼はコーヒーを楽しんでいた時と同じ涼やかな表情のまま、「そうですか、残念だなぁ」と呟いた。
「今日は本当に、ごめんなさいね」
 知人のサロンを手掛けてもらい、担当のデザイナーということでお披露目パーティにも出席してもらったのに、ハンドルキーパーを買って出てくれたことに甘えたばかりか、おばさんの意地悪も意に介さずやり過ごしてくれるなんて、非常に申し訳ない。
 一輝さんは鳩が豆鉄砲を喰らったような表情で、ただただ困惑しているようだった。何故か私の方が慌てて別の話題を探すべく、少ない知恵を絞り出す。
「沙綾との約束は何時だったかしら?」
「19時頃に箕面萱野駅、とは言ってますけど、向こうの都合次第ですね」
 会場で別れる時、「友達と会う」とか言ってたっけ。こんないい人をあまり振り回さないようにしなさいよ、と心の中で娘に小言を言ってみる。ワガママも美徳、器量と教育してきたけど、少々やり過ぎた。
 一輝さんは私のことなどあまり気にしていないようで、マイペースにコーヒーを飲み切っていた。「もう一杯いかが?」と尋ねると、「トイレが近くなるといけないんで」と辞退された。
 彼はズボンのポケットからスマホを取り出し、腕時計を見ると、椅子から腰を上げた。
「もうそろそろみたいなんで、もう行きます」
 彼は空のカップに目をやった。私が「そのままでいいわ」と言うと、彼は「飲みっぱなしですみません」と軽く頭を下げた。
「コーヒー、ご馳走様でした。美味しかったです」
「そう? じゃあ、また飲みにいらっしゃい」
 彼は「ありがとうございます」と再び頭を下げた。自分のカバンを持って、「じゃあ、行ってきます」とサロンへ通じる階段を静かに降りて行った。

初稿: 改稿:
仮面ライター 長谷川 雄治
2013年から仮面ライターとしてWeb制作に従事。
アマチュアの物書きとして、執筆活動のほか、言語や人間社会、記号論を理系、文系の両方の立場から考えるのも最近の趣味。