8月29日(火)

 自分たちの手でペンキを塗ったという壁は、一つの汚れもなく、窓から差し込む光を柔らかく跳ね返していた。窓際の観葉植物は置いたばかりらしく、まだまだこれから伸びるのだとか。
 調理場が丸見えの、長い長い一本の木を使ったカウンター席も、背の高い椅子ながら座り心地は悪くなさそうに見える。テーブル席の椅子も程々の柔らかさで、電源の取れる席も長居するのに丁度良さそうだ。
 商店街の一番端で駅から少し歩くものの、この距離感で長居できて電源もある喫茶店というのはありそうでなかった。決して広くはない店内だけれど、窓や座席の配置を工夫することで狭さを感じさせない造りになっている。
 向かいの席に座った沙綾の前に、パンケーキが置かれた。先に来ていたコーヒーに、お代わりも注いでくれた。まだ何も書かれていない便箋を睨みつけながら、沙綾はパンケーキにシロップをかけた。
「どう? 少しは書けそう?」
 沙綾は便箋を脇に置き、スマホを文鎮代わりに乗せた。ナイフとフォークを取り、パンケーキを一口食べた。
「ぜ〜んぜん、思いつかない」
「せっかく陽菜ちゃんから便箋をもらったのに」
「お父さんへのメッセージなんて、全然出てこないな〜」
 Mサイズのオフィスで受け取る前は、「父親の誕生日と手書きのメッセージ」に変なスイッチが入って、やたらと鼻息荒くなっていたのに、いざ書き出すとなると急に熱が覚めてしまうのは、誰に似たのだろう。少なくとも、私ではない。
「今から送ったって、間に合わないしな〜」
「だからって、メールの一通だけじゃ可哀想じゃない」
「じゃあ、お母さんが送れば?」
「私はもう、赤の他人だもん」
 沙綾はブスッとした表情でコーヒーカップを口元に運んだ。私が貸した手元のペンを避け、カップを元の場所に置く。
「書かないんなら、ペンは預かろうか?」
 私が手を差し出すと、彼女はスッとペンを自分の方に寄せる。
「もうちょっと借りててもいい?」
 彼女のことだから、ダメだと言っても聞く耳を持たない。こういうことも織り込んで、使い捨て用のペンを差し出さなかった自分が悪い。書き心地がとても気に入っている一番のペンを人質に取られてしまっては、もう少し付き合う他ない。幸い、今日のスケジュールには余裕がある。ここを出たら、彼女のペンを買いに行こう。
 沙綾は順調のパンケーキを食べ進め、しっかり味わいながらも便箋を見つめている。
「そもそも、英語の方がいいんだっけ。日本語でも大丈夫?」
「メールは英語だったんじゃないの?」
「アレはほとんど、定型文のコピペだから……」
 いったい今まで、どんなメールを送っていたのやら。便利な世の中になったと思うべきか、娘の妙な要領の良さを褒めるべきか。それは後で悩むとして、「どっちでもいいんじゃない?」と答えた。
「向こうには健人もいるし、肉筆であなたのメッセージを送る方が大事なんだから」
 沙綾は「そういうことか」と漏らしながら、最後の一口を頬張った。
「ここでもうちょっと粘ってもいい?」
 私は別に構わないのだけど、とカウンターの向こうにいるオーナーさんへ視線を送る。彼はにこやかに笑顔を返してきた。とりあえず、違う種類のコーヒーを頼もうかしら。パンケーキのお皿を下げにきた店員さんに、メニューを持ってきてもらうようにお願いした。

初稿: 改稿:
仮面ライター 長谷川 雄治
2013年から仮面ライターとしてWeb制作に従事。
アマチュアの物書きとして、執筆活動のほか、言語や人間社会、記号論を理系、文系の両方の立場から考えるのも最近の趣味。